JR総武線平井駅から歩き始めて、都営新宿線一之江駅まで歩くコースです。
およそ1万5千歩の歩きになります。
実際歩いてみると、水神宮の多さに驚かされる歩き旅になります。今回は、境内社にも注目して神社巡りをしていきます。謎が謎を呼ぶ不思議旅の始まりです。
豊川稲荷神社
豊川稲荷神社は、JR平井駅前にあるマンションの一角にあります。
マンションの敷地内と思われるので、立ち入るのはやめましょう。(私は入りましたが...)
幟に書かれた文字を良く読むと、複数のことが分かります。
googleマップ上は、「豊川稲荷」と表示されるが、正確な名称は「豊川吒枳尼真天」。
和栄会という組織や保存会、歯医者さんなど様々な方が幟を奉納していること。
それにしても、吒枳尼真天は、素人には読めません。吒枳尼真天と書いて「だきにしんてん」。
仏教のお稲荷さんって言われてます。
それ以外に、奉納が2000年3月。(マンションが竣工した時)
賽銭箱があるので、もしかしたらマンションの住民以外の方も参拝可能かもしれない。
平井浅間神社・逆井の富士塚
平井浅間神社の所在地:江戸川区平井3丁目2-2
豊川吒枳尼真天を出て、平井の町を旧中川沿いに南下します。川の対岸は江東区です。
旧中川に掛かる「ふれあい橋」を横目に通り過ぎたところに、平井浅間神社があります。
江戸川区教育委員会の看板が出ています。
「逆井の富士塚」に関する説明書きですが、「逆井の富士塚そのものが浅間神社」と記載されています。
「江戸川区史」によれば、「白髭神社の境外末社」で創建は1488年と言われているが、由緒は不明とのこと。
江戸川区教育委員会の看板によれば、高さが5mあるそうで区内で最大だそうです。
折角なので、階段を登ってみます。下から見ている感じでは、そんなに高い気がしません。
階段を登り切ったところには、小さな祠があるだけです。
周辺がマンションだらけになる前だったら、きっと景色が良かったんだろうな、と思わせるくらいの眺めでした。
平井白髭神社
平井白髭神社の所在地:江戸川区平井2丁目3-4
平井浅間神社を出て、50mほどの場所に、平井白髭神社があります。
鳥居をくぐって右手に「白髭神社建設記念碑」があります。この石碑に、平井白髭神社の由来が少し書かれています。
「当社は逆井草創の鎮守社にして猿田彦命を祭神として斎き奉る昭和20年3月9日夜戦災により炎上のため同24年10月仮社殿を建築し祭祀の執行に当りしが今回氏子多年の念願たりし御社殿の造営は浄財の寄進を以て厳しく竣工し昭和45年12月22日遷座の儀を奉仕す」(元文まま)
江戸川区史には、「社伝によれば建治年間の創建」と書かれています。
昭和45年の建物にしては、かなり綺麗な状態の社殿です。
訪問時(2020年8月)は、社務所の補修工事が行われていました。
本殿横の日影で休憩中の作業員の方が写りこまないように撮影しました。
狛犬も新しそうな感じです。
良く知らないのですが、狛犬は時々、専門業者がクリーニングしたり化粧直ししたりするのでしょうか。
神社の色もそうですが、赤色って退色しやすい色なので、どうしているのかなと...
境内は玉砂利が綺麗に敷き詰められています。また境内の木々が大きくないこともあって日影が殆どありません。今日みたいに暑い日は、日影が欲しいところです。
平井白髭神社は、こざっぱりしていてキレイな神社でした。
豊受稲荷大明神(境内社)
逆井庚申塚
京葉道路に出る手前のところに「逆井庚申塚」があります。
実は、今回の歩き旅で一番気になっていた場所です。平井の地図を見ていて、「逆井庚申塚通り」を見つけた時のワクワク感。この「逆井庚申塚通り」は、昔の西井堀(農業用水路)跡が道になったもの。
実は、北小岩にある「浅草観世音道」の道標は、このルートで逆井の渡しを渡って浅草浅草寺にいく道案内じゃないかと調べてたことがあります。
「逆井庚申塚通り」は、私の好きなウネウネ道ですが、今日は我慢して先を急ぎます。
ちなみに「逆井庚申塚」の方は、ネットを調べても詳細情報が出てきません。
(2021年4月追記) 再訪問し、詳細調査しました。こちらのコンテンツもご覧ください。
小野原稲荷神社
小野原稲荷神社の所在地:江戸川区西小松川町29ー1のお宅が隣でした
小野原稲荷神社は、創建は不詳。小野原耕地の五穀豊穣を祈願する神社です。
赤い鳥居の先(正面)に見えているのは、小野原稲荷神社の境内社である水神宮です。
最近建て直されたのでしょうか。他の方のブログの写真とは異なる建物に生まれ変わっています。
また、場所も数十m移っています。道路の拡幅工事があり移転したようです。
オレンジ色の綺麗な社殿になりました。
小野原耕地は、西小松川村の田畑でした。荒川放水路ができたことで田畑の大半が無くなったようです。
小野原稲荷神社があるあたりに、都電江戸川線の駅がありました。駅名を「東荒川」といい、大正14年から昭和27年まで都電が走っていました。この神社は、駅のランドマーク的存在だったとか...
祠(庚申塚)
祠がある場所:江戸川区東小松川2丁目9 小松川境川親水公園沿い
祠の中に石仏らしきものがあります。暗くて確認できないですが、提灯に「申」の文字が読めます。
どうやら、庚申塚のようです。
祠の中には花が飾ってあり、日々、手入れがされていることが確認できます。
水神宮 (東小松川村 中之庭 水神宮)
中之庭水神宮の所在地:江戸川区東小松川2丁目6-8
小松川境川親水公園の老人介護施設の横の道から一本脇道に入ったところにある水神宮です。
googleマップ上に表示されていたので、立ち寄ってみました。
ネットを見ても、何の情報もありません。
正に「ガイドブックに決して載らない街歩き」なのだが、誰ひとり話題にしない場所というのも淋しいものです。なので、私が調べたことを書いておきます。
それにしても、このあたりは、水神宮が多い場所です。
東小松川村では「大江川」「入之庭」「渡し場」以外では、「上之庭」「新道」「中之庭」「品清」に水神宮があったといいます。これらの多くは、各集落の川から水田への入り口付近に鎮座していたといいます。
「新道」は行徳道の周辺、「上之庭」は東小松川1丁目の北部あたりです。「中之庭」は東小松川白髭神社にも、その字名を見ることができます。「品清」は明治になってできた字名ですが、手元の資料からは、場所が特定できていません。
上之庭の水神宮ですが、小松川境川親水公園脇(松島1丁目)の水神宮が該当します。
現在の住所では松島1丁目ですが、ここも東小松川村でした。
中之庭ですが、ここから150mほどのところに「中之庭地蔵堂」があることから、現在いる場所の水神宮が「東小松川村 中之庭の水神宮」と判断されます。こちらの水神宮は祠ではなく石碑(文字碑)となっているが、この石碑は明治時代に建てられたそうだ。
「新道」と「品清」の水神宮は所在不明です。
中之庭地蔵堂
中之庭地蔵堂の所在地:江戸川区東小松川2丁目12-18
折角なので、更に寄り道をして中之庭地蔵堂に行きます。
江戸川区教育委員会の説明書きの看板が出ている。
延命地蔵菩薩が祀られている。天保9年(1838年)に霊夢を感じて小松川境川の川底を探したら出てきたと言い伝えられている。(そんなバカな話がある訳ないと私も思うが、このパターンの「ご本尊が川の中から出てくる」という言い伝えは意外と多いのだ。)
(2021年4月追記)
ここにある延命地蔵尊は庚申塔でもあるという情報を得て、詳細を調べるため再訪問
大江川水神宮
大江川水神宮の所在地:江戸川区東小松川3丁目9
小松川境川親水公園の横に、柵で立ち入りが制限された水神宮がある。
大江川水神宮と言い、毎年6月24、25日に例祭(水神講)が行われている。
水神講が残っていること自体珍しく、この地区にある「入之庭」「渡し場」の2か所を合わせた水神講が江戸川区の民俗文化財に指定されている。
実は訪問した当日は、この水神宮の前の通りが水道工事中で近づくことができなかった。2日後に再訪問して写真を撮った苦労の1枚です。
境内が狭いので水神講をするのが大変そうだ。目の前の道路を交通止めにすれば、何とかできそうだが。
入之庭 水神宮
入之庭水神宮の所在地:江戸川区東小松川3丁目22
大江川水神宮の横の道を150mほど行ったところに入之庭水神宮がある。
非常に狭い範囲に、ふたつの集落があったようだ。
入之庭は、そういった意味では小松川境川から少し離れた場所になる。
「入」は「圦」と書いた。
江戸川区史によれば、堰(水門)の周りの広場という意味を持つのが「圦之庭」という地名とのこと。
こちらにも、大江川水神宮と同じ文面の江戸川区教育委員会設置の看板が出ている。
境内が広めなので、人が集まるにはちょうど良さそう。表通りから入る入り口はチェーンで封鎖されているので、狭い路地から境内に入る。こういうことでもないと通らなそうな狭い道だった。
東小松川白髭神社
東小松川白髭神社の所在地:江戸川区東小松川3丁目7-20
東小松川白髭神社は、過去に参拝したことがあったが、どうしても境内社を良く見ておきたくて再訪問となった。
創建は不詳ですが、東小松川村の鎮守で村社に列していたそうです。
境内には、浮洲浅間神社が合祀されています。
境内は、児童公園が併設されています。
拝殿は、村の鎮守らしい渋くて風格を感じさせる建造物でした。
狛犬の台座には、「中之庭」の氏子からの寄進で作られたことが刻まれています。
江戸川区史によれば、御手洗には「渡場庭」「天保14年」の銘が入っているという。
写真に写っている常夜燈の台座には、寄進者として「西宇喜田村」や「上千葉村」など広い範囲から寄進があったことが分かる。尚、この常夜燈は、浮洲浅間神社にあったものを移設したそうです。
東小松川白髭神社の境内社 (浮洲浅間神社)
江戸川区教育委員会の説明書きが出ています。
この一段高くなった場所にあるのが、浮洲浅間神社と、それに付随する施設です。
荒川放水路の開削工事により、この地に遷座しました。
浮洲浅間神社は、創建は不詳ですが、江戸川区内きっての古社と言われています。
「みそか浅間」とも称し、旧東小松川村の飛び地の鎮守でした。
言い伝えでは、
「昔このあたりは寄洲といって、沖に出る舟の潮待ちする場所だった。ある時、潮待ちをしていると浅間様のお札が流れ着いた。もったいないので砂をかき寄せてお札を建てておいたところ、そこが洲になって、やがて神社を建てられるほどになった...」
ここの住人は、川で何かいいものを拾うのが得意なようだ。
浮洲浅間神社の一角に「水神宮」と書かれた古い祠が置いてあります。
東小松川村の飛び地は、何という字名だったのだろう。
渡し場 水神宮・観音堂
江戸川ボートレース場の駐車場のところから裏に入ると「渡し場 水神宮」があります。
訪問時は、ご近所の方でしょうか自転車できて参拝されている女性がいました。
一勝負前の願掛けではないと思いますが...
字名となっている「渡し場」という集落は、大半が荒川放水路開削により水没しました。
この水神宮が、小松川境川からかなり離れた場所にあることから、荒川放水路開削時に現在地に移設されたものと推測されます。
渡し場観音堂の方は、カーテンが閉まっていて中を見ることができない。観音堂というくらいなので仏教系だと思うが、しめ縄があります。
船堀稲荷神社
船堀稲荷神社の所在地:江戸川区船堀1丁目1-5
渡し場水神宮から中川沿いの道路を南下していくと船堀稲荷神社があります。
入り口が、かなり分かり難いのでスマホの地図を頼った方が良いかもしれない。
私は入り口に気付けず、通り過ぎてしまった。
うっそうとした木々に囲まれた場所に入り口があります。(悪く言えば、手入れが不十分なんですが)
緑に溢れた神社と裏手の大型マンションのコントラストが、この神社の特徴でもあります。
こちらの神社も、公園が併設されています。先客の親子が昼食のお弁当を食べていました。
江戸川区史によれば、
江戸川放水路の開削工事により大正4年に、この場所に遷座したそうだ。
創建は、元禄4年(1691年)。このあたりを開墾した七戸の方が稲荷大明神を勧請し五穀豊穣を祈ったのが始まりと言われている。船堀村西組の鎮守だった。
境内に水神社の小社と根乃権現神社の小祠がある。
狛犬が特徴的。それにしても、子がでかい。
もう、親に甘える年じゃないだろ、と突っ込みを入れてみる。
そういえば、先客のお子さんも結構大きな...
船堀稲荷神社境内社(水神社、稲荷社、根乃権現神社の祠)
狛犬の前に石碑があり、水神宮の奉納者の記載がある。
江戸川区史に記載の「境内に水神社の小社」は確定。
この水神社が、新編武蔵風土記稿の船堀村の項に記載の水神社なのだろうか。
さて、問題は、下の写真にある2つの境内社。
江戸川区史の資料に書かれているのは、「根乃権現神社の祠がある」だけ。
鳥居はひとつだが、その先の祠は3つ。祠の前に狐がいる。
個人の屋敷にあったお稲荷さん(屋敷神)を集めましたって感じがしないでもない。
階段を登っていくと、小さな祠が1つある。
わざわざ階段まで作ってお参りする場所に祠を置いたのは、どういう意味なのだろうか。
「根乃権現神社」のことが全く分かっていない自分には、何一つヒントになりません。
私の推測は、階段を登っていく方が、「根乃権現神社の祠」。さて、真相は?
船堀日枝神社
船堀日枝神社の所在地:江戸川区船堀6丁目7-23
船堀スポーツ公園の横に「船堀日枝神社」がある。
参道の売り口は、一之江境川親水公園側になります。
この写真からは分かり難いが、境内の右手に広場があって、結構な敷地面積である。
江戸川区史によると、安政2年に554㎡の土地が寄進されたそうだ。現在も同じ広さかは、分からないが、子供が草野球をするには十分な大きさだ。
これだけの広さがありながら、なぜ、敷地の左に集中的に建物を集めているのか不思議だ。
江戸川区史によれば、
船堀村東組の鎮守で村社だった。
慶長19年(1614年)に、船堀開発の守護神として山王権現を祀ったのが始まり。明治6年に日枝神社と改称した。
特大サイズの狛犬がいる。かなりの見ごたえがあり、必見です。
正面よりも、裏側から見た方が大きさを感じるのはケツがでかいからなのか...
天祖神社と水神宮(境内社)
他の方のブログによれば、境内社として天祖神社と水天宮があるという。
何か手掛かりはないかと見て回ったが良く判らなかった。
googleマップの表示を信じれば、天祖神社です。
新編武蔵風土記稿の船堀村の項には、天祖神社=神明社という記述がないので、いつ誰が創建したか知りたいです。
これくらい立派な境内社なら由緒があっても良いのだけどね。残念。
広場の端っこにポツンとあったのが、水神宮だろうか?
船堀日枝神社の隣に、一之江境川親水公園がある。水神宮があるのも当然という感じか。
ただ、現在社会では田畑も無くなり、川も親水公園化しているので、忘れられた存在になってしまった感がある。
こちらも、手掛かりがないので良く判らない。
祠の扉を開けると、神様の名前が書いてあるのかもしれないが、そんな罰当たりなことはできない。
他の方は、どうやって調べているのだろう。
船堀の富士塚(浅間神社)
船堀日枝神社の社殿左奥に富士塚がある。
本日、2つ目の富士塚です。江戸川区教育委員会の看板が出ています。
高さは2m。山頂に浅間神社が祀られています。
船堀三嶋神社
船堀三嶋神社の所在地:江戸川区松江6丁目10-3
船堀の富士塚を見たら、神社の横の道を北上します。新大橋通を過ぎて公園があったら、その先に船堀三嶋神社があります。
一見すると裏口のようなところに、三嶋神社の看板が出ています。
「四国大三島 日本総鎮守大山祇神社御分身」とあります。
江戸川区教育委員会作成の由緒書きの看板も、設置されていました。以下、江戸川区史より抜粋
「寛政2年(1790)頃、当地に移住した新右衛門・権兵衛・嘉左衛門・長兵衛などが協議のうえ守護神として勧請、この地に小社を建立したのが始まりで、旧船堀村草分けの氏神であるといわれています。」
「場所が、船堀村の北端にあるため、村の鎮守は船堀日枝神社になったが、旧家の中には、船堀三嶋神社を本宮とする方もいる」
ですが~、
何度も登場している新編武蔵風土記稿には、1行もこの神社のことが書かれてません。何故だ?
お断り:
江戸川区教育委員会の看板では東船堀村と表現されていますが、幕末の頃、船堀村は東船堀村と西船堀村に分村。このブログでは、船堀村東組と船堀村西組の表記とさせていただいてます。
鳥居が特徴的で忘れられない感じです。
とにかく太い!
本家(今治)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)も、こんな太い鳥居なのかと思ってネットで調べたが、ごく普通の鳥居だった。
本殿は極めてシンプルな作りをしていた。
江戸川区教育委員会の説明書きには、
「社殿は流造りで、安政4年(1857)に再建。荒廃したため、昭和39年に新たに建立した。」
とあります。
「流造り(ながれつくり)って何?」というレベルの素人なので、説明書きを読んでもピンときません。
後日、ネットで調べて納得。
水神宮(境内社)
本日、最後の水神宮。
船堀三嶋神社の横には、一之江境川親水公園が通っています。
小松川境川同様、水害・水難防止や田畑への水の安定供給など水と深く関わった場所なのでしょう。
まとめ
何だかんだと15か所のスポットを巡る旅でした。
歩いた時間の何倍も時間をかけて、見どころを紹介する記事を書かさせていただきました。
いかがだったでしょうか。一度、歩いてみませんか。