今日は、JR総武線の錦糸町駅をスタートして、東陽町・木場と巡って錦糸町駅に戻るコースで、神社巡りをします。
今回の神社巡りは、中々の強敵です。
ひとことで言えば、稲荷神社のラッシュアワー。では、覚悟を決めて出発しましょう。
伏見稲荷神社(錦糸町パルコ内)
伏見稲荷神社の所在地:墨田区江東橋4丁目27-14
地上にあるとばかり思って探し回ったので見つけられませんでした。
ネットの情報によれば、錦糸町パルコ2Fか3Fのバルコニー部分にあるとのこと
入れる日と入れない日があるといった情報があるので、次回チャンスがあれば訪問したいと思います。
招福稲荷 (存在確認できません)
招福稲荷と表示される場所:墨田区江東橋4丁目7−10
googleマップに表示された場所に行ってみましたが、ビル建設が進んでいて既に存在していない様子。
2連発で外してしまいました。
田螺稲荷神社(たにし いなりじんじゃ)
田螺稲荷神社の所在地:墨田区江東橋3丁目3−9
ビルとビルの間に鎮座していました。
こんな場所に、良く残っていたという感じです。
田螺の読みは「たにし」です。墨田区観光協会のホームページに、田螺稲荷神社に関する逸話が紹介されていました。
「江戸時代の頃、火災があり周辺の住宅が焼け落ちる中、池から這い出た大量のタニシが社殿に張り付き、その身を焦がしながら社殿を守った」
以来、人々は霊験あらたかな稲荷として厚く信仰している。
よく、こんな嘘くさい話を信じたなと思いますが、人の心理をうまくついたんだろうなあ。
ネットの情報では、田螺稲荷神社となる前は、田中稲荷だったという。
どっちも田んぼ絡みの名前ですね。
古地図 with MapFanで江戸時代の地図を見ると、田中稲荷と記載され、現在地よりも西側にあったことが分かります。
清昌稲荷大神と出世辨財天(江東寺内)
清昌稲荷大神と出世辨財天の所在地:墨田区江東橋3丁目6-5
訪問したのは日曜日の午前中。
周辺には場外馬券場目当ての方と、飲み屋の客や風俗店の客引きなどで大混雑です。
そう、錦糸町の中でも、特に怪しげな場所に、こちらのお寺(五徳山江東寺)があります。
五徳山江東寺は、江東観世音がメインのハズですが、右側に「清昌稲荷大神」の祠と鳥居、左側に「出世辨財天」の祠と鳥居、「高盛大神」の石柱と幟旗など、神社のような佇まいです。
江東寺の境内社 清昌稲荷大神
祠の前に狛犬と狛狐がいます。
御利益などが書かれた看板があります。
本社は京都伏見稲荷大社で、伏見稲荷山三の峰に御塚が奉安されているそうです。
江東寺が昭和15年に東京楽天地の招聘により創建(伊香保町 水沢観世音の別院)されました。創建時より縁深い稲荷との記載がホームページにあるので、清昌稲荷大神も昭和15年の創建と思われます。
江東寺の境内社 出世辨財天
江東寺の公式ホームページよれば、昭和19年縁あって江東寺に移建奉安されたそうです。
鎌倉時代の出現と伝えられ、昔は洞窟弁天と称されていました。安政の大地震で地中に埋まり行方不明になった後、江戸時代になって再度発見された。この時、出世弁財天と改称した。
伏見江一稲荷神社 (企業持ち)
伏見江一稲荷神社の所在地:墨田区江東橋1丁目3-6
中に立ち入ることができない稲荷神社です。
門柱のところに、持ち主の企業名が出ています。
吉田製作所の本社兼東京工場の敷地にあるのが、こちらの稲荷神社です。
なぜ、部外者が手を合わせられるような場所にあるから分かりません。
千社札が付いているところから判断して、昔は門が開いていた?
御嶽神社
御嶽神社の所在地:墨田区江東橋5丁目8
googleマップ無しでは、絶対にたどり着けないと断言できます。
マンションの敷地を抜けないといけません。
それだけなら、屋敷神としてスルーするところなんですが、奉納者が多数いるので、屋敷神ではなさそうです。
じゃあ誰でも歓迎なのかというと、門が閉まっていて入れません。
ネットを探ってみましたが、創建に関することは一切不明です。
廣得稲荷神社
廣得稲荷神社の所在地:江東区住吉2丁目17-1
少々のことでは驚かなくなってきました。
今度は、ガレージの向こう側にある神社です。
車が3台ほど止められるスペースがあります。ガレージの横には、傘が複数本ぶらさがっていてガレージの持ち主が置いているようです。
こちらの神社は、屋敷神なのでしょうか、それとも...
さい銭箱があるので、個人持ちではないと判断しました。
創建に関するもの全てが謎ですが、先に進みます。
日先神社
日先神社の所在地:江東区猿江1丁目22−12
幟旗には、「摩利支天尊日先神社」と書かれています。
神額は、どうでしょう?
「日ノ先神社 摩利支天尊」です。どうやら、「日先」と書いて「日ノ先(ひのさき)」と読むようです。
赤い鳥居に狛狐。
どうやら、こちらの神社も、お稲荷さんのようです。
祠の中を覗いてみましょう。
「摩利支天尊」と「永喜稲荷大明神」の2つの提灯があります。
江戸時代の地図を見てみます。面積は小さくなりましたが、ほぼ同じ場所に「摩利支天」の記述があります。どうやら、江戸時代は「摩利支天」と呼ばれていたようです。
猿江稲荷社
猿江稲荷社の所在地:江東区猿江2丁目5
猿江神社に対抗するように鎮座しているのが、猿江稲荷社。
こちらのお稲荷さんは、お隣の妙壽寺猿江別院の境内にあります。
お寺さんのお稲荷さんですが、ちゃんと例祭があります。
その名は、「猿江稲荷社大祭祈願法要」。
「神社」と言わず「社」というところや、「法要」というところに、お寺らしさを感じます。
祠の扉のところに由緒書きの紙が貼られてました。
「本覚山妙壽寺が、寛文元年(1661年)より別当寺院を務める猿江稲荷社」と記述されています。
他にも色々書かれてますが、要は、仏教の経典によって祀られた稲荷社ということが言いたいようです。
現在の祠の左隣に、古い祠と年代物の狛狐が鎮座しています。
さて、ここで江戸時代の地図を開きます。
この場所と道路を挟んだ猿江神社がある広い範囲に、妙壽寺と猿江稲荷が鎮座していたことが分かりました。では、いつ猿江神社と猿江稲荷の2つに分れたのでしょうか。それとも、猿江稲荷が、猿江神社になったのでしょうか。
それを、知るため先に進みます。
稲荷神社(正一位稲荷大明神)
稲荷神社(正一位稲荷大明神)の所在地:江東区猿江2丁目2-17
猿江稲荷とは、道路を挟んで向かい合っています。
猿江神社の敷地内にあるのですが、猿江神社には境内社の扱いをされていません。
公道に面した場所で、誰でもお詣りできるのですが、由緒も神社名も不明なお稲荷さんでした。
猿江神社
猿江神社の所在地:江東区猿江2丁目2-17
謎のお稲荷さんがある参道から入ったため、一回、正面の鳥居から出て入り直します。
大きな神社です。ずーと、小さなお稲荷さんが続いていたので、ちょっと嬉しい。
早速、由緒書きを探して回ります。
由緒書きには、色々書かれてましたが、江戸時代に猿江稲荷と呼ばれていた神社が、現在の猿江神社でした。しかし、こちらの猿江稲荷でも別当は妙壽寺だったとも書かれてます。
由緒書きで猿江村の氏神様と分かったので、新編武蔵風土記稿で猿江村の条を見ます。
そこには、地名の由来になった池があったとか、猿江稲荷社除地の話しはあるものの神社に関する記述がありません。
実は、田螺稲荷神社や日先神社を調べる際も新編武蔵風土記稿を見ているのですが、記述を見つけられずにいます。何やら、このエリアの神社は、超難問の予感。
猿江神社の公式ホームページから、私の知りたかったことを抜粋しておきます。
正確な創立年代は不詳であるが、1058年頃(平安中期)には稲荷社として信仰を集めていた。
社殿は昭和6年の再建。
昭和21年に伊勢大御神を合祀し、猿江神社に改称。
自分としては、かなりの驚きです。
江戸の町で稲荷社が流行ったのは、徳川が江戸に入城した以降。それより前の時代からある稲荷社は、このあたりの信仰を考える上で興味深い。
もうひとつ、江戸時代より前は、このあたりは海だったと思っていたので、集落ができるほどの陸地があったという新発見。手元の信用できる資料によれば、ここは1600年前後の埋め立て工事で陸地化した場所です。ということで、ホームページに書かれている情報は話半分に聞いておくことにした。
猿江の神社だから、猿ってことか?
猿江神社によると『神猿は「まさる」と呼び、『魔が去る・何よりも勝る』として古来より縁起の良いもの』だそうだ。
境内で売られているお守りも、この写真の猿と同じデザインだった。
御朱印帳にも猿をあしらっているところをみると、猿をマスコットキャラクター化する戦略だな。
中々の商売上手である。
猿江神社の狛犬
拝殿の前に、良い感じの狛犬がいたので写真に収めてきた。
昭和6年のものであるが、江東区の有形文化財になっている。
この当時は、猿江稲荷神社と言っていたと思うが、狛狐ではなく狛犬が鎮座しているのが興味深い。
左右の狛犬を見比べてみてください。
私には、左右の狛犬が同じ顔をしているように見えます。つまり、阿吽になっていません。
狛犬のマニアに言わせると、大正から昭和の初めの頃の狛犬が、一番面白いのだとか。
技術が上がって、デザインが多様化した時代だそうです。
猿江神社の境内社 馬頭観音社
案内板は出ていない。
取り敢えず写真に撮って、帰宅後にネットで調べるというパターンでした。
ご利益が分かるように看板でも出しておけば、看板代以上の賽銭が集まるだろうにとか思ってしまう。商売上手な神社なのに、もったいない。
猿江神社の境内にあった良く分からないもの
ただ並べておくだけじゃダメなんだよと、説教してやりたい。
【写真上】字の読めない古い石碑の前に狛狐が多数
【写真下】石造りの祠が放置されている
どっちも、氏子さんの屋敷神だったものが持ち込まれたって感じですが...
猿江神社の境内社 藤森稲荷神社
由緒書きが出ています。
創建年は不詳も、江戸時代初期には、横網町の御用材木蔵に祀られていた。亨保19年(1734年)に、御用材木蔵とともに現在の猿江恩賜公園の地に遷座。昭和52年に潮見駅前に遷座後、平成13年に猿江神社境内に遷座した。
400年近く木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた神社です。
豊川稲荷
豊川稲荷の所在地:江東区猿江1丁目1−12
googleマップでは、「豊川稲荷(曹洞宗)」と表示される場所です。
個人持ちの稲荷神社のようなコンパクトさですが、祠の中を覗くと豊川稲荷大明神維持会と書いた幕が張られています。
なぜ、googleマップで、わざわざ「(曹洞宗)」と表示させるのでしょうか。
無論、豊川稲荷が曹洞宗のお寺さんということはありますが、地図上で、それを表示する必要性はありません。不思議ですね。
伏見白菊稲荷大神
伏見白菊稲荷大神の所在地:江東区扇橋1丁目9−8
横にある社務所に掛かった大きな看板に目が行きます。
「東京白菊講深川支部」「講務本庁 東京白菊教会」
鳥居の奥には、草木が生い茂り、行く手を阻みます。
写真だけ撮って、ささっと先に進むことにしました。
御祭神は「白菊三坐之大神」で良いのでしょうか。youtubeに祈祷されている動画があったので、怖いもの見たさで閲覧...
永代稲荷神社 (個人持ち)
永代稲荷神社の所在地:江東区扇橋1丁目10−10
伏見白菊稲荷大神から20mくらいの場所にあります。
入るべからずというやつです。雑草だらけで手入れがされてない様子。
鳥居の下に狛狐が1対鎮座しているので、稲荷社と判別はできました。神額は、この距離からだと読めません。
帰宅後、写真を確認すると、祠の中に、しめ縄らしきものがあるのが分かります。
長年放置しているわけではなさそうです。
宇迦八幡宮 (うかはちまんぐう)
宇迦八幡宮の所在地:江東区千田12-8
サラリーマン時代の仕事帰りに、頻繁に宇迦八幡宮の前の道を通っていました。
桜の季節に来ると良い神社です。
ここの鳥居は、白木で出来た美しい姿をしています。街中の神社では、白木は珍しいと思います。
由緒書きを探しましたが、掲示は無いようです。江東区の教育委員会には、もう少し頑張って欲しいものです。
亨保年間(1720年)に、近江の国の千田庄兵工がこの地を開拓しました。3年を掛けて村作りをし、千田新田という場所となりました。その当時に、こちらの神社は、小さな祠として創建。千田庄兵工敬神の念から、千田神社と称しと称し土地の産土神が祀られました。
片栗を栽培して農民の飢餓を救ったという古き伝説から、別名、片栗八幡宮とも言うそうです。
新編武蔵風土記稿で、千田新田の条を見てみます。
稲荷八幡合社、村の鎮守なり、村持ち。と記述されています。
江戸時代の地図では、現在地よりも数100m東側に稲荷があったと表示されています。
身代わり地蔵尊
神社ですが、境内に身代わり地蔵尊があります。
水子供養で訪れる方も多いそうです。
八多稲荷神社
八多稲荷神社の所在地:江東区東陽5丁目12−10
草木が生い茂っていますが、管理された上での緑豊かなお稲荷さんです。
由緒書きはありません。
境内社もあるので、それなりの稲荷神社だと思いますが、中まで入って良い神社なのか迷います。
祠の前に赤い小さなお賽銭箱があります。
やはり、個人や企業持ちの氏神様ではなく、地域の守り神のようです。
参道正面が八多稲荷神社、左側に弁財天があります。
弁財天の神額には「分辨財天」の文字が入っています。
「八多」や「分」が地名から来ていないかと思い、明治や江戸時代の地図を探りますが、ヒントすら見つかりません。江戸時代は、このあたりは下屋敷がありました。明治の地図で池のようなものが確認できるので、そのころから弁財天があった可能性は感じますが...
googleストリートビューを見ていたら、2020年2月撮影の写真に老婆が境内清掃をしている姿が写っていた。ご近所のものですって感じの服装でした。
東陽繁出世稲荷神社
東陽繁出世稲荷神社の所在地:江東区東陽3丁目9−10
奉納者として、個人名や企業名が多数みられます。
地域の氏神様というところでしょうか。
社殿に掛かった紫の布は、東陽3丁目、3丁目東町会が平成18年に奉納したもの。
これより前からあるものかすら分からない稲荷神社でした。
この場所も江戸時代の地図では、下屋敷があった場所です。
下屋敷から出てきた稲荷社でないなら、明治以降の創建となります。
洲崎神社
洲崎神社の所在地:江東区木場6丁目13-13
永代通りを渡り、やってきたのが洲崎神社です。
江戸時代の地図では、この神社のある所が海岸線。私が見た江戸時代の地図では既に陸続きになっていましたが、江戸時代中期までは、東京湾に浮かぶ洲だった場所です。
境内に由緒書きが出てます。
創建年は、「徳川綱吉の生母桂昌院の守り神として崇敬した」頃とあいまいさがあるが、「元禄13年(1700年)に、江戸城中 紅葉山から、この場所に遷座した」そうだ。
現在の社殿は、昭和43年の造営。
秋晴れの青空と社殿がマッチして美しい姿を見せてくれました。
どうも、境内は近隣住民の抜け道のようで、木場駅に向かう人が足早に通り抜けていきます。
洲崎神社 狛犬
奉納年などは不明。
台座に書かれた第六 二番組の意味を調べたくてカメラのシャッターを切りました。
江戸町火消の組織分類で、第六区・二番組という部署の方が奉納したということまで分かりました。
この分類に分かれたのが、明治5年。なので、狛犬もそれ以降の奉納です。
第六区は、本所・深川地区を担当。現在は、江戸消防記念会として活動されている。
津波警告の碑、波除碑
写真は近代のもの。横の説明書きの大きな看板の後ろに、東京都指定有形文化財の「波除碑」がある。
説明板の裏側にあった石柱。文字が殆ど読めなくなっているが、こちらが江戸幕府が建てた波除碑。
洲崎神社の境内社 於六稲荷神社
門前仲町の方に於三稲荷神社というのもあるが、何か関係があるのだろうか。
「於六」の読みは「おろく」で良いのだろうか?
於三稲荷神社の方は、団子屋の娘であった阿三(おさん)から来ているようだが...
洲崎神社の境内社 豊川稲荷神社
豊川稲荷ですか...
稲荷、弁財、稲荷、弁財、稲荷、稲荷って感じで続きます。(まだまだ続くよ)
洲崎神社の境内社 辨天社
弁天様が主祭神の神社なのに何故という疑問。
他の方が撮られた古い写真を見て分かりました。昔は境内に池があり、池のところに鳥居と祠がありました。上野の不忍池を模倣したのでしょうか。
洲崎神社の境内社 玉の輿たまちゃん
この感覚、理解できません。
被官稲荷大明神
被官稲荷大明神の所在地:江東区木場5丁目8
オフィスビルやマンション、病院が立ち並ぶ一角に被官稲荷大明神はあります。
こんなところにあるのって感じの場所です。
奉納者を見ると、企業や個人と様々。
境内に、國枝捨次郎之碑が建っています。これが、唯一のヒント。
非常に読みにくいですが、「被官稲荷大明神祠創建者」と書かれているようです。
國枝捨次郎は、1876年生まれ1937年没の衆議院議員、京橋区長、実業家でした。
昭和3年(1928年)に木場町15に住んでいた記録が残っていました。
鳥居を奉納した「神東塗料株式会社」は、國枝捨次郎が専務取締役をしていた帝国塗料を合併した会社。
繁栄稲荷神社
繁栄稲荷神社の所在地:木場2丁目18-12
繁栄稲荷神社は、大丸松坂屋の本社前にあります。
こんなところに、大丸松坂屋の本社があるんだという驚きと、想像してなかった歴史ある神社との出会いに感動しました。
由緒書きの看板が出ています。
呉服商大丸の祖下村彦右衛門が宝暦7年(1757年)に深川木場の別邸に、伏見稲荷から分霊して祀ったことをはじまり。
明治44年(1911年)に、根津嘉一郎(東武鉄道の社長として有名)の青山邸(現根津美術館)に移され、同家の嘉栄稲荷として祀られました。
昭和36年(1961年)に大丸に返譲され、旧地の近くに遷座。(油堀川の畔)
平成元年に大丸コアビル(大丸松坂屋 本社が入居)の建築に伴い、現在地に移築された。
境内に入ろうとすると先客が一組。
会社の制服を着た女性と老夫婦の組み合わせで、女性が境内を案内している。
不思議に思いながら見ていたが、近所の売りマンションを見に来たお客さんに神社も案内していたようだ。神社も含めて魅力を感じてもらう作戦らしい。かなりのやり手、営業スタッフだ。
与太話はこれくらいにして、境内を見て回ろう。
本殿の建築年代は虹梁絵様から19世紀中頃と判断されている。(安政2年の江戸大地震以降の再建)
向拝には手の込んだ装飾が施されています。
鳥居には安政4年(1857年)と年号が入っていた。
素人目にも、派手さはないが金を掛けた良いものと分かる社殿でした。
繁栄稲荷神社の狛犬
年代物らしい雰囲気をだした狛犬。
他に狛狐もいたが、こちらは素人でも近代の作と分かるものだった。
鶴歩稲荷大明神
鶴歩稲荷大明神の所在地:江東区木場3丁目9-2
一見すると個人持ちの屋敷神のようですが、違うようです。
狛狐の台座部分に、千石会という名称とメンバーの名前が刻まれています。
材木商の社名が多数。木場という土地柄を反映した氏子です。
鶴歩(かくほ)というのは、このあたりの昔の地名。
このあたりで商売をしていた材木商たちの守り神なのでしょうか。
書かれている社名を調べていくと、現在は新木場の方で商売されているようです。
松島稲荷大明神
松島稲荷大明神の所在地:江東区白川4丁目5
マンションの敷地の一角にある、お稲荷さんです。
マンション側に塀があって公道に向いて鎮座しています。
こちらのマンションの宣伝をしていた不動産屋さんのホームページに、日本橋の松島神社にゆかりある稲荷神社と紹介されてました。
この近所には、人気のコーヒー専門店(ザクリームオブザクロップコーヒー)があり、観光客で大賑わいでした。
清澄白河は、サードウェーブのコーヒーで有名な場所。残念ながら、私はコーヒーより風呂上がりのビール派なので先を急ぎます。
白笹稲荷神社
白笹稲荷神社の所在地:江東区白河3丁目2−3
社殿の隣に、神輿庫があります。
幟旗が多数出ていて、結構な人気ぶりです。
社殿に続く、赤い鳥居がアーケードのように連なっている様は見事です。
神社の前には子育て地蔵があります。子育て地蔵の方には、由緒書きがありましたが、白笹稲荷神社にはありません。なので、自力で由緒を調べる必要があります。
いっしょうけんめい調べましたが、何も分かりません。
今昔マップ on the webで、時系列に地図を見ていくと、地図上に神社マークが現れたのが、1990年代。
ネット上の写真で確認したが、玉垣に時津風定次(元双葉山)の名が刻まれている。
つまり、時津風を襲名した1945年から没年(1968年)までの間で玉垣ができていることまで分かった。
分からないものはしょうがない、稲荷神社では良くあることと、諦めて先に進みます。
榎稲荷神社
榎稲荷神社の所在地:墨田区立川4丁目12-24
榎稲荷神社は、江戸時代の地図でも榎稲荷と表記されて掲載されていましたが、現在鎮座する場所とは異なるところにありました。
由緒書きの石碑があります。漢字とカタカナの石碑を読む気力が湧きません。既に体力的にも限界に近く、写真だけ撮って先に進むことにしました。
それにしても、昭和40年の由緒碑なのに明治の文書みたいな漢字とカタカナの文書を書くのは、どうなんだろう。
由緒をひとことで伝えるなら、天和3年(1682年)に菊川の土手に出来た稲荷社が始まり。関東大震災で焼失後、現在地に遷座。
榎稲荷と呼ばれるようななったのは、大久保紀伊守の邸内社だった頃。境内に林立する榎から榎稲荷大明神と称した。
午前中から神社巡りの歩き旅を始めましたが、こちらの神社を訪問した時には、すっかり夕方の日の当たり方に変わっていました。
まだ3つ参拝する稲荷神社が残っています。先を急がねば...スマホも電池切れ寸前です。
五柱稲荷神社
五柱稲荷神社の所在地:東京都墨田区緑4丁目6
榎稲荷神社からほど近い場所にあったのが、五柱稲荷神社。
道路からは1mほど高い場所に鎮座しています。
境内を見回しましたが、ここも由来書きがありません。
由緒書きは無かったが、「史跡 勝海舟●●」と書かれた木の札が建っています。
どうやら幼少期に勝海舟が、この辺りに住んでいたようです。
さて肝心の、この神社の御由緒ですが、東京神社庁の記述は、堅くてさっぱり要領を得ません。
なので、私の方で意訳して説明しましょう。
亨保13年、伏見稲荷を勧請して創建。植村土佐守正朝が屋敷内に祀ったのが始まりと言われている。
江戸時代の地図では、植村帝刀と書かれた屋敷があった場所に鎮座。
一般の参拝が許されたのは明治に入ってから、それ以降、地域の守護神として崇められた。
永倉稲荷神社
永倉稲荷神社の所在地:墨田区緑4丁目38-5
総武線に載っていると見える神社だったので、以前から気になっていました。
個人持ちのお稲荷さんだろう位に思っていましたが、ちゃんとした稲荷神社でした。
境内に由緒書きは見当たりません。ネットで調べることにします。
明治の地図を見ると、このあたりが永倉町という地名だったことが分かります。
この辺りの、守り神様みたいです。
節分には、豆まき大会が行われるようです。確かに上から巻いたら楽しそうです。
創建は大正時代。現在の地に遷座したのは戦後だそうです。
津軽稲荷神社
津軽稲荷神社の所在地:墨田区錦糸1丁目6-12
やっと最後の稲荷神社に到着しました。
錦糸町駅の北側にあるのが、津軽稲荷神社です。
由緒書きが、なかなか見つからない。拝殿の横に張ってあった、助かる~。
と思ったが、そんな簡単な話ではなかったのだ。
「弘前藩津軽家下屋敷にあった稲荷社が、津軽稲荷神社」ということが書かれているのだが、他の資料では弘前藩津軽家中屋敷となっている。江戸時代の地図を見ると、土岐豊前守下屋敷とあり、手元の資料の整合性が取れていないのだ。
安政5年(1858年)の屋敷相対替えで弘前藩津軽家中屋敷になったというので、このあたりの情報が誤記を生んだ原因か。
安政5年の木版画 江戸絵図も見たが、「とき●●●●●」と読める場所となっていた。残念。
墨田区観光協会のページに良いことが書いてありました。
家には守護神として屋敷神が必ず祀られました。
墨田区観光協会ホームページの津軽稲荷神社より
屋敷神は土着性が強く、他に移動しませんので、置いて行かれることが多いものです。
津軽稲荷神社の境内社 弁財天
由緒書きによれば、江の島弁財天の分身だそうだ。
ゴールの錦糸町駅に
ゴールの錦糸町駅にたどり着いたのは16時頃。5時間近い歩き旅になりました。歩数が2万歩なので、歩いている時間と立ち止まっている時間が半々という感じです。
結局、27か所を巡って、25の神社に出会えました。
25の神社の内、お稲荷さんが祀られていなかったのは1社だけ。
何だか一日中、赤い鳥居や赤い幟旗を見ていた気がします。
不思議なのは、ゼロメートル地帯なのに水神社が見当たらないこと。稲荷神社一辺倒なのは何故なんでしょう。
謎の稲荷社が多い神社巡りになってしまいましたが、それでも、被官稲荷大明神あたりは、多少なぞが解明できたかなと思います。
来月は、両国駅起点でぐるっと門前仲町あたりまで歩き回ってみたいと思います。