築地本願寺まで行く用事があったので両国駅から歩いてみた。折角なので神社巡りしてきました。

毎月一回、築地本願寺に行くため、何とか工夫して面白くできないか考えました。

題して「制約とミッションがあるルールで歩くと楽しいかにチャレンジ」

ルールを作ってみた。やってみて面白くなかったら改善していこう

ルールがあると歩き旅が楽しくなります。発想は、テレ東の番組出演者になった気分で。
今回の歩き旅のルールは、

コースとミッション

両国駅を出発して国技館通り、一の橋通り、新大橋通りを進んで、ゴールの築地本願寺に行く。

制限事項

道路(国技館通り、一の橋通り、新大橋通り)の右側にある神社だけ、出来るだけ巡って参拝する。

路地に入るときは、ルールで設定した道路から、だいたい300m以内とする。
大きな道路を渡っては、路地の先には進めない。

最初にお断り

実際に歩いたコースと異なるルートを標準コースとして掲載しています。
標準コースは、歩数や所用時間が最小になるように設定しました。
実際に歩いてみた結果、道路を渡れず回り道をした、無駄足になった、遠回りだったなど様々な理由から、神社巡りの順序を変更しました。

使用している写真の一部は、撮影日が異なるものがあります。写真の状態が良いものを選択していますのでご了承ください。

両国駅を出発

いつも通り、両国駅を出発。目指すのは築地本願寺です。
10月の中旬過ぎでしたが、少し観光客が戻ってきているようでした。(2020年10月21日記)

小林稲荷神社

小林稲荷神社の所在地:墨田区両国1丁目6-1

個人宅の玄関先にあるのが、「小林稲荷」です。
普通に考えれば個人所有の稲荷神社なのですが、例祭日の掲示があります。一般の方の参拝も可能なのかもしれません。

小林稲荷神社
小林稲荷神社

神額には「伏見 小林稲荷神社」と書かれています。

新大橋を渡ります

通りの名称ともなっている新大橋を渡ります。下を流れるのは隅田川。
斜張橋と呼ばれる構造の橋が出来たのは、昭和52年。
この場所は、空が開けていて、秋晴れの日は最高に気持ちが良いです。

新大橋
新大橋

笠間稲荷神社 明治座分社(笠間出世稲荷神社)

笠間稲荷神社明治座分社(笠間出世稲荷)の所在地:中央区日本橋浜町2丁目31-1

明治座の裏手にあるのが、笠間稲荷神社 明治座分社です。

笠間稲荷神社 東京別社からの分社。
詳細は不明も、明治6年にできた明治座の前身である喜昇座時代に鎮座したそうです。

笠間稲荷神社 明治座分社
笠間稲荷神社 明治座分社

笠間稲荷神社 東京別社 日本橋七福神『寿老神

笠間稲荷神社 東京別社の所在地:中央区日本橋浜町2丁目11-6

今回のルールの中では、一番、新大橋通りから離れる神社です。
境内は都会の神社っぽく、非常にコンパクト。社務所があって、お守りとか売られている神社でした。
境内に由緒書きはありません。ネットから情報を拾ってくることにします。

笠間稲荷神社 東京別社
笠間稲荷神社 東京別社

創建は、安政6年(1859年)。
笠間藩主牧野貞直が笠間から江戸屋敷に御分霊を祀ったのがはじまり。
以降、日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として身分に関係なく広く信仰を集めたと、中央区観光協会のホームページに書かれていました。

別名、紋次郎稲荷。なぜ、紋次郎というのかは記載なく不明。

笠間稲荷神社 東京別社は、日本橋七福神巡り寿老神を担当する神社。
日本橋七福神巡りは、7つの神様を全て神社で対応しています。

元徳稲荷神社、綱敷天満神社

元徳稲荷神社、綱敷天満神社の所在地:中央区日本橋浜町2丁目3-5

御由緒が書かれた看板があります。
墨田区立川にも元徳稲荷神社があるが、この2つはコピーもの

墨田区立川の元徳稲荷神社が本家なら、こっちが分家という関係。
但し、墨田区立川の元徳稲荷神社が豊受大神宮の分霊なので、分霊の分霊という関係です。

日本橋浜町にあった細川公の大名屋敷に元徳稲荷神社を分霊したというので、江戸時代が創建年。

元徳稲荷神社、綱敷天満神社
元徳稲荷神社、綱敷天満神社

境内には、幟旗が出ていて、綱敷天満神社の方が合格祈願。
元徳稲荷神社が、日本橋浜町の鎮守にして、商売繁盛と火伏せを担当しています。

元徳稲荷神社、綱敷天満神社 社殿
元徳稲荷神社、綱敷天満神社 社殿

松島神社(別名:大鳥神社) 日本橋七福神『だいこく様』

松島神社の所在地:中央区日本橋人形町2丁目15-2

新大橋通りから20mほど入ったところに、「大国神」と書かれた幟が特徴的な「松島神社」があります。
ビルの中にある神社ですが、社務所があり、お神札やお守りが売られていました。

ビルの1Fにある松島神社
ビルの1Fにある松島神社

東京都神社庁のサイトに御由緒が掲載されていました。

鎌倉時代の元亨(1321年)以前にこの辺りが入り海であった頃、松の木が鬱蒼と生えた小島に柴田家の邸内社として祭られてあった。
天正13年(1585年)松島稲荷大明神として、一般に公開参拝の自由が許された。
大正5年6月10日松島神社と改称される。

「柴田家」は、下総から移り住んできたそうですが、それ以上分かりません。

別名として「大鳥神社」または「おとりさま」とも呼ばれているようです。
11月の酉の日に行われる酉の市では、熊手を目当てに商売人の方が大勢来られるそうです。

松島神社
松島神社

「大国神」は、大黒様(仏教)の神道版と理解すれば良いかも。日本橋七福神のひとつになっています。

同じ神社で、大鳥神社とか松島神社とか呼び名が違うのはややこしい、と思って調べてみた。

武家屋敷を作るのに全国から集められた人たちが、様々な氏神様を松島神社に合祀していった結果、色々な神様がいる状態になったそうです。
普段は日本橋七福神の大国神(だいこくさま)を主神にした松島神社。11月の酉の市では大鳥大神(おとりさま)を前面に出して大鳥神社と名乗るようだ。実に商売上手で面白い。

末廣神社 日本橋七福神『毘沙門天』

末廣神社の所在地:中央区日本橋人形町2丁目25-20

熱心にお参りしている先客がいらっしゃいました。
その隣では、郵便局員が社務所に何かを届けに来ていました。小さな神社ですが、社務所に人がいらっしゃる神社でした。

末廣神社
末廣神社

由緒書きが出ています。

江戸時代初期に吉原がこの地にあった時(元和3年~明暦3年)[1617~1657年]、地主神、産土神として信仰されていた。
延宝3年(1675年)の社殿修復の際、年代物の扇が発見されたので氏子が悦び祝って『末廣』の二字を冠したそうです。

茶ノ木神社 日本橋七福神『布袋尊

茶ノ木神社の所在地:中央区日本橋人形町1丁目12-10

新大橋通りから20mほど入ったところにあるのが、「茶ノ木神社」です。
新大橋通りから見えるので、比較的分かり易い場所になってます。

由緒書きの看板が出ています。

茶ノ木神社
茶ノ木神社

茶ノ木神社は、「お茶ノ木様」と呼ばれ、町内の人々に親しまれています。

徳川時代、この土地は約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老掘田家中屋敷でした。
茶ノ木神社は、その守護神として祀られた伏見系のお稲荷さんです。
神社の名前は、社の周囲にめぐらされたお茶の木の緑が見事であったことから付けられた。

中屋敷や周囲の町方で、永年火災が起こらなかったため、しだいに火伏の神と崇められるようになった。
堀田家では年1回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にさせた。

布袋尊の幟旗
布袋尊の幟旗

昭和60年に、布袋尊を御遷座申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。

布袋様が神社に!ってビックリしてみたが、調べてみると七福神詣りでは、あるあるでした。
神社の定義って何だろうと思うことも度々。

銀杏稲荷、銀杏八幡宮

銀杏稲荷、銀杏八幡宮の所在地:中央区日本橋蛎殻町1丁目7-7

新大橋通りに面した場所にある神社です。
境内を見回しましたが、由緒書きが見つかりません。

銀杏稲荷、銀杏八幡宮
銀杏稲荷、銀杏八幡宮

由緒書きが掲示されていた時期があるようですが、現在はなくなりました。
2014年には、由緒書きがないと書き込みがあり某有名サイトの引用がされているので、かなり前の話しのようです。

銀杏稲荷
銀杏稲荷

由緒は良く判りませんが、折角なのでお参りしていきましょう。
見ていると、稲荷神社よりも八幡宮の方が人気があるようで、銀杏八幡宮で手を合わせられる方が多数。

銀杏八幡宮
銀杏八幡宮

小網神社 日本橋七福神『福禄寿様』

小網神社の所在地:中央区日本橋小網町16-23

ビックリしたのは、平日にもかかわらず、行列ができるほどの参拝客。

「芸能人も来るんたよな」とか言いながら並ぶ若者。黒塗りの車でやってくる会社役員。
主婦のグループや、訳あり風サラリーマン。何?って思うくらい、多種多様な人たちが集まっています。

こちらの神社の御利益は、強運厄除と金運のアップだそうです。

小網神社
小網神社

小網神社は、日本橋七福神巡りの5つ目、福禄寿を担当する神社です。
実は、今回のルールだと日本橋七福神巡りは5つまでしか巡れません。残る2つは、新大橋通りの左側か300m以上離れた場所にあります。

何とも、趣のある木造の建物が社殿の右側にあります。こちらが神楽殿。本殿と神楽殿が昭和4年の造営です。昇り龍や降り龍などの彫刻が施されています。
創建年は文正元年(1466年)。歴史ある神社ですので、じっくり見学したいところですが、見ての通りの混雑ぶり。尚、江戸時代の地図では、もう少し南寄りの場所にあった。

粉神社 (存在確認できません)

粉神社があるとされる場所:中央区日本橋小網町19−12

googleマップには表示されますが、この場所には日清製粉グループのビルがあるだけで、神社には辿り着けません。(写真では、赤い看板のある道路の反対側にあるビルです)

日清製粉グループのビル
日清製粉グループのビル

会社の中にある神社なので、一般人は参拝出来ないし、ランドマークにもならない場所です。
この場所をgoogleマップに登録したら駄目です。
ついでに言えば、横断歩道の手前5m以内は駐停車禁止。ここに止めてる役員車の運転手さん、プロとして失格。

兜神社

兜神社の所在地:中央区日本橋兜町1-12

どうせ、また辿り着けない神社だろうと思っていましたが、自分の思い込みでした。

高速道路を走る車の音がうるさいですが、兜町の一角にある、ちゃんと手を合わせられる神社です。
ありがたいことに由緒書きも出ています。

兜神社
兜神社

明治11年に東京証券取引所(当時は東京株式取引所)が出来た際、鎮守として兜神社を造営とあります。

現在の社殿は、昭和46年の造営。創建後、何度か遷座しているそうです。

日本橋日枝神社

日本橋日枝神社の所在地:中央区日本橋茅場町1丁目6-16

江戸時代の地図では、「日吉山王旅所 薬師堂」と表示される場所です。
現在は、この周辺には茅場町らしく証券関係のビルが立ち並んでいます。
ビルの裏手にあるため、静かで、木々もあるため別世界のようです。

日本橋日枝神社
日本橋日枝神社

日本橋日枝神社という言い方と、日枝神社日本橋摂社という2つの言い方があるようです。
公式ホームページでも、両方使っていました。

由緒書きがあるものの、創建年があいまいな表現で誤魔化されています。
他の調査資料を参考にすると寛永年間に山王日枝神社の御旅所に指定されたのが始まりらしいのです。

(江戸時代には、)境内地には天満宮、稲荷社、浅間社のほか、山王の本地とされる薬師堂や閻魔堂も建立され、縁日や勧進相撲も行われていたと、ホームページに記載されてました。

日本橋日枝神社 拝殿
日本橋日枝神社 拝殿

日本橋日枝神社の狛犬

上を向いているパターンが珍しくて、写真に収めた。

日本橋日枝神社の狛犬(右)
日本橋日枝神社の狛犬(右)

昭和9年の奉納。
水道橋 石匠 野村保太郎の銘が入っている。
言ってみれば、ブランド物の狛犬!

日本橋日枝神社の狛犬(左)
日本橋日枝神社の狛犬(左)

胸の部分の曲線、腕の筋肉の表現などに美しさを感じます。
今日は、これが見れただけで充分。

明徳稲荷神社

明徳稲荷神社の所在地:日本橋日枝神社と同じ

まるで、日本橋日枝神社の境内社のように鎮座していますが、境内社の扱いを受けていません。
但し、日枝神社が面倒を見ているという不思議な関係で、日本橋日枝神社と同じ場所に鎮座しています。

明徳稲荷神社
明徳稲荷神社

元禄の頃より茅場町交差点近くに鎮座していたが、関東大震災後の区画整理で当地に遷座したと言います。(手元の江戸時代の地図では、この稲荷の存在は確認できなかった。)

大原稲荷神社

大原稲荷神社の所在地:中央区日本橋兜町11-3

中央警察署の斜め前にあるのが、大原稲荷神社です。

写真撮影をしている時、妙に後ろからの視線を感じて緊張します。

大原稲荷神社
大原稲荷神社

由緒書きは出ていません。
社殿の横に、昭和41年と年号が入った奉納者名が入った額がでています。
銀行や商店の名前が多く入った額でした。『第一銀行』とか『日本勧業銀行』『富士銀行』とか...

江戸時代の末期には創建されていたそうです。創建当時は広大な境内を持つ稲荷社だったようですが、関東大震災後の区画整理でこんなに狭くなってしまいました。

鳥居稲荷神社

鳥居稲荷神社の所在地:中央区日本橋兜町20-2

大原稲荷神社から200mほど歩くと、鳥居稲荷神社があります。

こちらも狭い境内に建つ稲荷神社ですが、ちゃんと由緒書きが掲示されています。

ちょうど、昼飯時で近所のサラリーマンやOLが食事に出てきました。邪魔にならないように写真を撮るのが大変です。

鳥居稲荷神社
鳥居稲荷神社

御由緒から要点を抜き出し加筆。
享保2年(1717年)、この地に鳥居丹波守忠瞭(下野壬生藩主)の上屋敷があり神社はその庭中に祀られていた。
享保6年(1721年)の大火により類焼、上屋敷は移転し町屋街となり町民が暮らすようになった。
町民は、この稲荷社の神徳顕著なことを聞き、力を合わせて社殿を造営した。鳥居家の邸内に鎮座されていたことに因って鳥居稲荷神社としてと崇め維持に尽くした。

つまり、鳥居家の元敷地に造ったから、鳥居稲荷神社で良いのかな?

八丁堀天祖神社

八丁堀天祖神社の所在地:中央区八丁堀3-6-6

住宅と住宅の間に挟まれるように鎮座していたのが、八丁堀天祖神社。

石碑があり、由緒書きらしきものが刻まれています。でも、読めません。文字はくっきりと読めますが、昔の文書で頭に入ってきません。唯一分かったのが、「鎮座350年」だけ。
写真に撮って、家でじっくり確認することにします。

八丁堀天祖神社
八丁堀天祖神社

由緒を要約すると
寛永元年(1624年)に寺社奉行に願い出て、江戸日本橋通り3丁目に建立。寛永10年(1633年)に八丁堀松屋町に遷座。
という記録が宝暦元年(1751年)に書かれている。

江戸時代の地図を見ると、現在地の直ぐ近くに「五十郎大神宮」と読める神社の記述があります。

新富復興稲荷社

新富復興稲荷社の所在地:中央区新富1丁目4−8

街角に突然としてあったのが、新富復興稲荷社の祠です。

以前は、数m離れた場所にあり鳥居もあったそうです。
その場所は、現在マンションになっています。

新富復興稲荷社
新富復興稲荷社

毎度のパターンですが、御由緒が分かりません。昭和の初めにはあったということくらい。

関東大震災からの復興を祈願したものではという書き込みを見ましたが、良く分かりません。

新富稲荷神社

新富稲荷神社の所在地:中央区新富2丁目9−5

最後の立ち寄り先の新富稲荷神社に到着しました。
最後は、由緒が分かりそうな稲荷神社でホッとします。

境内に由緒書きはないので、帰宅後の調査とはなりましたが...

新富稲荷神社
新富稲荷神社

明治の初めに、この場所に遊郭があったころに祀られたそうです。その頃は中万字稲荷と呼ばれてた。
遊郭が廃止後の明治5年に、守田座が移転してきて神社を再建。現在に至っているようです。

手水鉢は七代目坂東三津五郎の奉納。
守田座の座元である十二代目守田勘弥の長男が七代目坂東三津五郎の関係だそうです。

尚、守田座が、この地に移転した理由は、「しいをもとめる」というゲン担ぎだそうです。

坂東三津五郎奉納 手水鉢
坂東三津五郎奉納 手水鉢

ゴールの築地本願寺

築地本願寺の所在地:中央区築地3丁目15−1

散々、神社を見てきて、ゴールがお寺というのも何ですが...気にしないでください。

古代インド仏教様式の建物が特徴で、日本のお寺っぽくない外観をしていますが、浄土真宗本願寺派のお寺さんです。

築地本願寺
築地本願寺

浄土真宗本願寺派の総本山は、京都の西本願寺です。
築地本願寺は、この西本願寺の直轄寺院の位置づけになっています。
境内にある、カフェ「Tsugumi」は、朝食で人気があり、食事時は整理券が必要な程です。

ゴールまでの歩数は1万5千歩。時間的にもちょうど良い感じで歩けました。
もう一個くらい制約があった方が面白いかも、例えば、紙の地図だけを頼りに歩くとか...

来月は、築地から両国に戻りながら神社巡りをする予定です。お楽しみに。