市川駅から本八幡方面に歩いて、庚申塔や石造物を見に行く

JR総武線市川駅から本八幡方面に向かって歩きながら、庚申塔を探していきます。

道端にあったり、仏教系の施設や神社にあったりと様々ですが、結構楽しく巡ることができました。
市川市内には、庚申塔が非公開のものを含め110あるとされてます。
全部は紹介できませんが、徐々に紹介していきたいと思います。

真間(路傍)の青面金剛

真間の青面金剛 所在地:千葉県市川市真間1丁目15−8あたりの路傍

真間銀座通りを進み京成線の踏切を渡ったら、斜めに入る細い路地を進んでいきます。
市川真間通りとぶつかる交差点付近に、こちらの青面金剛があります。

真間(路傍)の青面金剛
真間(路傍)の青面金剛

正面には、「青面金剛」の文字と下部に三猿が描かれています。
側面が道標になっています。判読不能の文字もあるため、市川歴史博物館の資料から抜き出します。
右側面に「右 八はた道 一丁行又右」、左側面に「左 まゝ國分道」「文政元戌寅十月吉日」「市川四丁目講中」

文政元年(1818年)なのに、市川4丁目ってどういうことなのでしょう?

市川(路傍)の青面金剛

市川の青面金剛 所在地:千葉県市川市市川1丁目25−21あたりの路傍

真間の青面金剛を見た後は、千葉街道に戻り本八幡方面に進みます。
戻る途中で、地蔵山墓地の横を通るので仏教系の石造物に興味がある方は立ち寄るのもありです。

千葉街道を歩き始めると直ぐに市川1丁目の青面金剛があります。
(googleマップでは、何故か新田5丁目6-5と表示されていますが間違っています)

石柱が黒ずんでいるのは、千葉街道を通る車の排気ガスの影響でしょうか。

市川(路傍)の青面金剛
市川(路傍)の青面金剛

こちらの青面金剛も側面が道標になっています。
判読不能の文字もあるため、市川歴史博物館の資料から抜き出します。
右側面は一番上に「東」。「八わた十六丁」「中山一リ」「市川新田 天明元年丑五月吉日」。
左側面は一番上に「西」。「西 市川八丁 江戸両ごく三リ十丁」「北 真間寺七丁国分寺十二丁」。
天明元年(1781年)から、庚申塔は、この場所にあったのでしょうか。

ここから路地に入ると市川真間駅の横を抜けて、先ほどの真間の青面金剛がある場所に繋がる古くからある道です。道標になっているものは、できれば、同じ場所で保存していて欲しいものです。

新田(胡録神社境内)の庚申塔

新田胡録神社の所在地:千葉県市川市新田1丁目3−1

新田胡録神社の前の歩道がちょうど工事中でした。
目的の庚申塔らしきものの確認にも支障をきたす場所で工事が行われています。
と言っても、お邪魔虫は私の方。工事の邪魔にならないように庚申塔の確認と撮影を開始します。

新田胡録神社
新田胡録神社

目星を付けていた庚申塔がある場所は、新田胡録神社の南東の角。
昔の写真では、外構の外側(道路側)にありましたが、通行の邪魔ということで新田胡録神社の境内に移されたようです。

新田(胡録神社境内)の庚申塔
新田(胡録神社境内)の庚申塔

早速、庚申塔らしき石柱の観察をしていきます。
辛うじて石柱の下部に三猿が残っていることが分かりました。
市川歴史博物館の資料でも、上部欠損、三猿以外の情報を得ることはできません。

平田(聖徳太子堂)の庚申塔

聖徳太子堂の所在地:千葉県市川市平田2丁目5−16

聖徳太子堂に到着しました。

陽雲寺 別院の看板が出ています。陽雲寺は、市川市中山にある日蓮宗系のお寺さんです。
創建は寛永6年(1629年)といいます。

聖徳太子堂は施錠されていて入ることが出来ません。お堂の中にある聖徳太子像も見たかったのですが、仕方ありません。屋外にある石造物を見て回ります。

聖徳太子堂
聖徳太子堂

聖徳太子堂の横に縁起が書かれた看板が出ています。

そこには、お堂の中に聖徳太子像が安置されている事。それが千葉県最古の万治元年(1658年)奉納の聖徳太子像であることなどが記載されています。

聖徳太子堂の屋外にある石造物は6つ

聖徳太子堂の左側に、石造物が6つあります。
市川歴史博物館の調査資料では、庚申塔が4つ、題目塔が1つ、聖徳太子供養塔が1つ。
聖徳太子堂の中に安置されているのも、聖徳太子供養塔ですが、市川歴史博物館の調査では庚申塔に分類されています。

反時計回りに見ていきます。

写真右側が聖徳太子供養塔、左側が青面金剛

写真右の石柱には「聖徳太子」の文字が刻まれています。左側面に奉納年らしきものがありますが、部分的にしか判読できません。読めたのは「六」「歳」「吉祥」「建立」など。
この文字を頼りに市川歴史博物館の資料と照合。
聖徳太子供養塔で、文政6年(1823年)の奉納と判明。

写真右側が聖徳太子供養塔、左側が青面金剛
写真右側が聖徳太子供養塔、左側が青面金剛

写真左の石柱には、青面金剛像が描かれ、文字が入っています。
判読不能なところが多いものの「奉造立」「八月●八日」と読めます。
これらから、市川歴史博物館の資料と照合。延宝9年(1681年)奉納の庚申塔と確認しました。
刻まれた文字は右側が「奉造立庚申講結衆現當安樂攸」、左側が「延宝九辛酉天八月廿八日」。

文字だらけの石造物も庚申塔

正面に刻まれた文字は「奉納御庚申現當二世安樂」「延寶第三年」。
この文字を頼りに、市川歴史博物館の資料と照合すると延宝3年(1675年)奉納の庚申塔と一致しました。

聖徳太子堂の庚申塔
聖徳太子堂の庚申塔

左から庚申塔、題目塔、不明な石造物

残された庚申塔は、あと1つです。
写真の左端の石造物には、三猿が描かれているので庚申塔と分かります。正面に何か文字が書かれていますが、「奉」の字以外は、判読できません。
市川歴史博物館の資料と照合していきます。
三猿が描かれている、奉で始まる文字が書かれている、笠付石柱型で高さが140cmほどであることの特徴が、残された庚申塔の特徴と一致。
寛文1●年(1671~3年)奉納の庚申塔と確認できました。

左から庚申塔、題目塔、不明な石造物
左から庚申塔、題目塔、不明な石造物

写真中央の石柱には「南無妙法蓮華経」と書かれています。
右側面に「亨保十●」と奉納年があります。
こちらは、亨保19年(1734年)奉納、大正2年再建の題目塔でした。

さて、最後に残ったのは写真右の石造物。台座が2段になっていて、その上の石柱部が欠損しています。下段の台座には、文字らしきものがあるような無いような...。
もしかして、堂内にある聖徳太子像の台座部分か?

八幡(十二社神社)の庚申塔や石造物

十二社神社の所在地:千葉県市川市八幡4丁目15−4

十二社神社にやってきました。

前回は神社を見たくて訪問したので、仏教系の石造物はスルーだったのですが、今回はじっくり観察していきます。

先に神社に参拝しておきます。

十二社神社
十二社神社

十二社神社の仏教系石造物は全部で7つ

参道左側の児童公園になっている部分に、仏教系の石造物がまとめられています。
大小合わせて7つの石造り祠が鎮座しています。
右から順に見ていきます。

十二社神社の仏教系石造物
十二社神社の仏教系石造物

一番右は、虚空藏大菩薩

小さなお地蔵さんが祠の前に置かれています。
残念ながら、文字の一部しか判読できません。
右側面では「宝暦」の文字がはっきり読めました。正面は、「空」「大」の文字が分かる程度。

虚空藏大菩薩
虚空藏大菩薩

市川歴史博物館の調査資料で確認すると、正面が「虚空藏大菩薩」、右側面が「宝暦乙亥九月吉日」と判明。
宝暦5年(1755年)に奉納された「虚空藏大菩薩」(こくうぞうぼさつ)の石祠でした。

虚空蔵菩薩って何?と思って調べてみたら、「知恵を授けてくれる菩薩」と出てきました。

右から2つめは、十九夜塔

見慣れた「如意輪観音像」なので、すぐに分かりました。正面右側に奉納年が刻まれています。
判読できたのは、「明●三●●年」

十九夜塔
十九夜塔

市川歴史博物館の調査資料で確認すると、「明和三丙戌年」。正面左側に「十月十九日」だそうです。
明和3年(1766年)奉納の十九夜塔でした。

十九夜塔は隣町(東菅野)の不動院に3つもあります。このあたりでは月待信仰が流行っていたようです。

右から3つめは、庚申塔

「猿田」の文字がはっきりと読めます。左側面に奉納年があり、「文久」と読めます。
台座部分には、三猿が描かれています。

猿田彦大神
猿田彦大神

市川歴史博物館の資料によれば、「猿田彦大神」、左側面の奉納年は「文久二壬戌十一月」と刻まれているそうです。

文久2年(1862年)奉納の庚申塔ということが分かりました。
御祭神が「猿田彦大神」なら仏教系の一角じゃなくて、境内社に加えても良いんじゃないかと思ったりしますが、大人の事情ということでしょうか。

右から4つめは二十三夜塔、5つめは庚申塔

写真中央の石柱は、はっきり「二十三」の文字が判読できます。右側面に何かしらの文字があるようですが判読できません。
写真左の石柱は、「庚申」の文字が判読できました。右側面に奉納年らしきものが確認できますが、判読できません。

二十三夜塔(写真中央)、庚申塔(写真左)
二十三夜塔(写真中央)、庚申塔(写真左)

市川歴史博物館の調査資料によれば、
二十三夜塔の方は、正面に「二十三夜神」、右側面に「安政三丙辰九月」と彫られているそうです。安政3年(1856年)の二十三夜塔でした。

同じ調査資料で庚申塔の方を確認すると、正面が「庚申神」、右側面に「文化六己巳霧月吉日」だそうです。文化6年(1809年)の庚申塔でした。

左端の2つ。手前が馬頭観音、奥が不明社

手前の祠は、最後の1字が読み辛いものの、「馬頭観音」と読めます。左側面には「明治四拾年九月」とあります。

奥の祠は文字が判読できません。

手前が馬頭観音、奥が不明社
手前が馬頭観音、奥が不明社

馬頭観音は、市川歴史博物館の資料に記載がありません。

同じ市川歴史博物館の資料には、不明社として明治15年2月奉納の石祠があるそうですが、右側面の文字(奉納年)を判読できません。唯一「三」の文字だけが判読できるのですが、「三」のように見える文字は本当は「五」なのでしょうか。