庚申塔とお寺に祀られた神様を見て回る(市川、真間、国府台)

千葉県市川市の市川~真間~国府台を歩いて、庚申塔やお寺に祀られた神様を観て回ります。
庚申塔のふりをした道標に出会ったり、お寺で庚申塔や龍神、お稲荷さんをみて「へー」とか「ほー」とか言ったりしながら、楽しく歩き回りました。

それにしても、お寺で石造物を探すのは、大変。

観音寺で庚申塔と十九夜塔を探す

観音寺の所在地:千葉県市川市市川2丁目13−16

最初にやって来たのは、市川橋を渡って直ぐの場所にある、天宮山 観音寺です。

こちらのお寺さんを訪問するのは2回目。前回は庚申塔を見つけられずに退散したのですが、今回はマニアの方の力を借りて事前学習してきました。

まずは庚申塔から

観音寺の庚申塔
観音寺の庚申塔

庚申塔は、墓地の入り口にある無縁塔の中に埋もれています。
三猿が目印ですが、今回は難なく見つけることができました。

三猿の上の部分に文字が刻まれています。
判読できない文字も多いものの、「庚申意●●」「寛文九●●●」など読めます。
市川歴史博物館発行の「市川市の石造物」という調査報告書を使って、詳細を確認します。
読めなかった「庚申意●●」は「庚申意趣者」と判明。年号部分は「寛文九年己酉 霜月二日」。
寛文9年(1669年)の庚申塔でした。

苦労しましたが十九夜塔

さて、観音寺にあると聞いていた十九夜塔も探したのですが、今回(2回目)も見つけられません。
無縁塔の中に紛れているかと思いましたが、違うようです。もしかして、観音堂の中?
いえいえ、墓地の方にありました。(3回目の訪問で発見)

観音寺の十九夜塔
観音寺の十九夜塔

刻まれた文字を確認していきます。
奉造立」「女人結衆同行四十八人」「爲二世安樂之也●●敬●」「延寶九辛酉暦二月十九日」(赤字は推定)

延宝9年(1681年)の十九夜塔です。

真間山弘法寺に祀られた龍神、庚申塔

真間山弘法寺の所在地:千葉県市川市真間4丁目9−1

弘法寺に立ち寄った目的は、こちらにある庚申塔を見るためでした。
結論から言うと、庚申塔を見つけられませんでした後日、再チャレンジして庚申塔を見つけました。
探し出す難易度の高さでは、ピカイチ。文字だけで庚申塔と判断するタイプの庚申塔なので、古い墓石だらけのお寺さんで文字を判読・照合していく作業は至難の業。

折角来たので、参拝がてら境内を見て回りました。

仁王門

階段を上った先に待っているのが、立派な仁王門です。

仁王門に掛かる「真間山」と書かれた額は空海が記したものと言い伝えられています。

弘法寺 仁王門
弘法寺 仁王門

ここで、おやっと思った方は、仏教通。

空海は、真言宗。こちらの弘法寺は、日蓮宗のお寺さんです。
そのヒントは、市川市教育委員会設置の看板にありました。

奈良時代に行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するため「求法寺」を建立したのが始まり。
平安時代に弘法大師(空海)が七堂を構え「真間山弘法寺」としました。その後、天台宗に転じたと伝えられます。さらに鎌倉時代に日蓮の布教、中山法華経寺の開祖 日常との問答の末に敗れ、日蓮宗の寺になったといいます。

弘法寺 本殿

本殿には一尊四士霊像が安置されています。
石造物にしか興味がない私は、本殿の前で参拝しただけで移動しました。

弘法寺 本殿
弘法寺 本殿

弘法寺 朱門

弘法寺で一番古い建造物と言われ、今から500年ほど前に造られたといわれています。

弘法寺 朱門
弘法寺 朱門

里見龍神

仏様ではなく、神様(里見龍神大善神)が祀られていました。
縁起に関する看板がでています。

里見龍神
里見龍神

昭和26年に青森に住んでいた方が、里見の伏姫の霊がこもったという白蛇と小鳥2羽の枯骸を真間の山に祀って欲しいと持ち込んだのが始まりだそうです。
白蛇だったから龍神にしたのでしょうか。

大刀大黒尊天 (たちだいこくそんてん)

七福神でもお馴染みの大黒天です。
ご本尊は『福再来』と呼ばれて、日蓮大聖人が比叡山で修業をしているときに自ら彫ったもので、1248年~1276年まで身に着けていたそうです。

大刀大黒天
大刀大黒天

弘法寺にある庚申塔

予想通り墓地の中にありました。
刻まれた文字がポイントなのですが、年代物の庚申塔なので、文字を判読するのも大変。
三猿も青面金剛像もありません。文字だけで庚申塔か判別するタイプ。

弘法寺にある庚申塔
弘法寺にある庚申塔

万治4年(1661年)の奉納。笠が付いた石柱で、高さは2m近いです。
掘られた文字は、右側から「南無多寛如来 万治辛暦」「南無妙法蓮華経 逆修七分全徳 庚申講之人数」「南無牟尼佛 月下旬造立之 (6名分の氏名)」だと手元の資料にあります。
目視で確認できたのは、赤い文字の部分。

庚申塔のふりをした道標

道標の所在地:千葉県市川市真間5丁目22−10のあたりの路傍

googleマップで、国分寺五町庚申塚と表示される場所です。

誰が命名したか分かりませんが、石碑の文字でハッキリしている部分を繋ぎ合わせたようです。
最初に結論を言ってしまうと、これは庚申塔ではなく道標。まずは、書かれた文字を見ていきます。

真間5丁目の道標
真間5丁目の道標

石柱の正面から見ていきます。
書かれた文字は正確には「国分寺五町」ではなく、「国分寺 江 五町」。
今時風に書けば「国分寺へ 5町(545m)」

他の文字はどうでしょう。右には奉納年として「文化五辰五月吉日」、左側に「庚申構中」の文字が確認できます。(「講」ではなく「構」の字が使われています)
三猿などの図柄はなく、文字だけの石柱です。

次に石柱の右側面を確認します。
文字があることは分かりますが、判読できません。こういう時は市川歴史博物館の石造物調査資料に頼ります。
「総寧寺江五丁」「六所大明神江二丁」だそうです。

石柱の左側面は、「真間山」の文字が判読できますが、そこまで。再び、資料に頼ります。
「真間山江壱丁」「八はた江廿五丁」「市川江六丁」

これらの状況から、庚申信仰の目的で作られた石造物ではないと判断。
つまり、庚申講の方たちが文化5年(1808年)に奉納した道標となります。

松戸市との境にある路傍の庚申塔

庚申塔の所在地:千葉県市川市国府台6丁目2

次にやって来たのは、未訪問だった松戸市との境目にある庚申塔です。
交差点の角にありますが、道路の向こうは松戸市。

国府台6丁目の青面金剛像
国府台6丁目の青面金剛像

青面金剛像と三猿の組み合わせの庚申塔がひとつだけあると思っていたのですが、修理痕がある、古そうな石柱もあります。
まずは、青面金剛像の方から見ていきます。

右側面に文字が入っていて、道標になっています。
「右 市川道」「元文三戌午天」と奉納者名が刻まれていました。

左側面はどうでしょう。文字が入っていることは視認できますが、判読は出来ません。
手元の資料を確認すると、「左 國分寺道」「十月吉日」と書かれているそうです。

元文3年(1738年)奉納の庚申塔と確認できました。

次は、確認が難しそうな修理痕がある石柱を観察します。
文字があるような無いような曖昧な感じです。市川歴史博物館の調査資料「市川市の石造物」にも記載がありません。修理するほど大切にされている石柱ですが、その正体に迫ることはできません。

泉養寺の深川稲荷尊天

泉養寺の所在地:千葉県市川市国府台5丁目26-18

泉養寺は、江東区深川を開拓した深川八郎右衛門を開基とする天台宗のお寺さんです。

ここに立ち寄ったのは、以前から深川稲荷の幟旗が気になっていたこともありますが、普段開いていない山門が開いていたことが大きいです。

深川稲荷尊天

特に説明書きはでていません。泉養寺さんはホームページもありますが、縁起など書かれていないため詳細が分かりません。

深川稲荷尊天
深川稲荷尊天

施楽観音

「東三十三所 泉養寺 観音霊場 第十四番」の看板が出た祠の中に施楽観音が納められています。

施楽観音
施楽観音

東三十三所観音霊場巡りは、京成電鉄が企画した霊場巡りで、沿線のお寺さんが協力して行われたものです。最初に訪問した観音寺が20番札所、この次に訪問する總寧寺が17番札所となっています。

總寧寺の庚申塔と十九夜塔

總寧寺の所在地:千葉県市川市国府台3丁目10−1

庚申塔と十九夜塔をみるため、總寧寺(そうねいじ)に立ち寄ります。

安国山總寧寺(そうねいじ)といい、曹洞宗のお寺さんです。
永徳3年(1383年)の建立、現在の場所に移転したのは寛文3年(1663年)だそうです。

移転した時に幕府から寺領として128石5斗余、山林を67,000余坪あたえられたと言います。
現在でも大変広い敷地のお寺ですが、当時は隣接する里見公園の方まで寺の領地でした。

總寧寺 本堂
總寧寺 本堂

下乗石「下馬」

總寧寺の入り口の外側に「下馬」と彫られた石柱があります。
下乗石と呼ばれるものです。

下乗石「下馬」
下乗石「下馬」

下馬石があるということが、格式が高いお寺さんだった証拠なのだそうです。

どんなに身分の高い人でも、ここで馬を降りて、歩いて参拝しなさいという意味だそうです。
身分の高い方が、参拝に訪れる場所だったということなのでしょう。

總寧寺の庚申塔

仏像系の石造物は、参道の横に並べてあるので、目的の庚申塔は直ぐに発見できました。

青面金剛像と三猿が描かれた庚申塔です。刻まれた文字を確認していきます。

總寧寺の庚申塔
總寧寺の庚申塔

左側面に奉納年が入っていて、「元文四未十月吉日」と読めます。
右側面は奉納者が入っていて、「下総國葛飾郡國府●村 願主」以下、4名分の氏名が判読できます。
読めなかった●の部分は、手元の資料によると、台の旧字である「臺」。

国府台村の方が元文4年(1739年)に奉納した庚申塔でした。

總寧寺の十九夜塔と念仏塔

如意輪観音を探すと、大小2つの石造物が並んでいました。どちらかが、目的の十九夜塔だろうとあたりを付けて、石造物に刻まれた文字の確認に入ります。

總寧寺の十九夜塔と念仏塔
總寧寺の十九夜塔と念仏塔

写真右側の大きい方から見ていきます。
観音様の左側に文字があり「念佛構中」と読めます。さらに「総●國府臺●」「同行」なども判読できました。観音様の右横の文字を確認します。「奉●刻●●菩薩●●●...」「天●元辛●●十一月●●日」
市川歴史博物館の調査資料と照合し、天和元年(1681年)の念仏塔であることが分かりました。

次に写真左の小さい方を確認します。
観音様の左側の文字は「●永●庚●年九月吉祥日」「同行五十人」
観音様の右側の文字は「奉」や「念」の字が部分的に判読できますが、ほとんどの文字は判読できません。これらの情報と調査資料を照合した結果、宝永7年(1710年)奉納の十九夜塔と確認できました。
ほぼ読めなかった観音様の右側の文字は、「奉唱念百堂十九夜念仏 現當二世安樂所 下総國府臺村」だそうです。