両国駅から、のんびり寄り道しながら徳之山稲荷神社へ

蔵前に所用があったのですが、両国駅でJR総武線を途中下車。
両国駅の北側を散策してから、蔵前に向かうことにしました。

両国駅を下車後は、
私が墨田区で唯一未訪問だった神社「徳之山稲荷神社」に立ち寄り、蔵前橋を渡って、蔵前の町に入ることにしました。

両国駅から寄り道しながら徳之山稲荷神社へ

旧安田庭園と駒止稲荷の狛犬

最初の立ち寄りは、安田庭園。平日の昼休み時間だったため、いつもより混んでいましたが、ベストポジションのベンチを確保できました。

天気予報では晴だったのですが、昼になって怪しげな雲が出てきています。

旧安田庭園
旧安田庭園

さて、ここに立ち寄ったもうひとつの理由は、庭園内にある駒止稲荷で狛犬の奉納年を確認しておきたかったから。
ここの狛犬は、片方の狛犬だけ、頭の上に宝珠がのっています。相方の頭の上には、宝珠も角もありません。ツルって感じ。珍しいので、製造された年代に興味を持ちました。

駒止稲荷神社の狛犬
駒止稲荷神社の狛犬

で、肝心の奉納年ですが、「昭和三●●年六月二十●日」と欠けてしまい判読できません。
昭和3年なのか昭和30年代なのか...
ヒントは、奉納者である「安田学園」。
大正時代からある学校ですが、安田学園を名乗ったのは昭和23年からと判明。

駒止稲荷神社の狛犬の台座
駒止稲荷神社の狛犬の台座

旧安田庭園にある狛犬の寄贈者が安田学園かぁと思って調べました。
旧安田庭園を所有していた安田善次郎が安田学園を創立したんですね。なるほど。

横網町公園

ふたつめの立ち寄り先は横網町公園です。
この公園は、関東大震災及び戦災で犠牲になられた方のメモリアルパークとなっています。

今回気になって写真に収めたのは、「駒形にあった桜守稲荷の鳥居」。
関東大震災により、倒壊して折れてしまったものだそうです。

実は、徳之山稲荷神社の参拝が終わった後、台東区内の神社巡りをしています。(記事は別にしました)
その時、様々な場所で、折れた鳥居や焼け落ちた電柱などを目にすることになります。

徳之山稲荷神社

徳之山稲荷神社に到着すると先人がひとり。
会社の作業服を着た方が、熱心に表の看板に書かれた文書を読まれています。そこには、「徳山五兵衛屋敷跡」と書かれています。

徳之山稲荷神社
徳之山稲荷神社

徳之山稲荷神社は、想像していたより、こじんまりとした社殿でした。
屋敷神なので、当然と言えば当然なのですが、予備知識ゼロで行っているので、こんなことでも「へー」とか「ほー」とか言って楽しんでいます。

ところで、こちらの神社名は、下記の内、どれが正しい表記なのでしょうか。
「徳之山稲荷神社」、「徳ノ山稲荷神社」、「徳山稲荷神社」。
「徳之山稲荷神社」は、神額や墨田区教育委員会設置の看板に書かれたもの。
「徳ノ山稲荷神社」は、ネットの某有名サイト。
「徳山稲荷神社」は、「徳山五兵衛屋敷跡」の看板(墨田区設置:江戸の町)内で使われていました。
ちなみに、宗教法人の届け出では、法人名称は「稲荷神社」です。残念!

徳之山稲荷神社 社殿
徳之山稲荷神社 社殿

「徳山五兵衛屋敷跡」の説明書きにこちらの稲荷神社の由緒も記載があります。

「江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行 徳山五兵衛重政の屋敷跡です。
この稲荷社は屋敷神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀され、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。」(説明書きの一部を抜粋)

日本左衛門首洗い井戸跡

こちらの井戸も、表の看板の方に由来らしきものが書かれています。

「孫の徳山五兵衛(秀榮)は、寛保4年(1744年)に御使番から御先手鉄砲頭に転じた後、火付盗賊改方に就任し、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄右衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門を捕えたことで有名です。」

日本左衛門首洗い井戸跡
日本左衛門首洗い井戸跡

刑場で処刑されているので、当然、ここに首洗いの井戸があるのは、おどろおどろしさを演出するための小道具くらいの感じでしょうか。

尚、wikipediaでは、ここに書かれていることは誤りとの説も出ています。
「本所築地奉行に任命されたのは代々の旗本徳山五兵衛でも徳山重政のみであり、年代が合致しない。」

ということで、「日本左衛門首洗い井戸跡」は、「へー」とか「ほー」とか言いながら見るのが良いかと思います。

徳之山稲荷神社の基礎データ

所在地

墨田区石原1丁目36-10

アクセス

両国駅より徒歩12分