錦糸町から両国。但し、入谷の太郎稲荷経由で2万2千歩、4時間半だった。今日も元気に歩いて神社巡り

入谷の太郎稲荷にどうしても行きたいという気持ちと、墨田区内の神社巡りをしたいという気持ちのふたつを合体。

錦糸町から両国まで歩いて神社巡りする途中で、入谷の太郎稲荷に寄ろう!

普通の精神なら、合体出来ない行先を一筆書きで繋げてしまうところが、今日のポイント。

錦糸町駅から両国駅まで寄り道しなければ、2km、30分の歩きコースです。

千種稲荷神社

千種稲荷神社の所在地:墨田区錦糸4丁目15−60 錦糸公園内

錦糸町駅からほど近い場所にある錦糸公園に、千種稲荷神社はあります。

境内の掲示板に、由緒書きの紙が貼られていました。

千種稲荷神社
千種稲荷神社

江戸時代、この場所は低湿地帯でしたが、徳川第四代将軍の時代に治水を目的とした土木工事が行われ、横十間川周辺に下屋敷の敷地が整備され、商家の営業が許可されるなどしたため武家屋敷が軒を連ねるようになった。その頃から、柳島村の鎮守として祀られていたと伝えられている。

千種稲荷神社 社殿
千種稲荷神社 社殿

明治2年の大政官達で武家下屋敷も解体され農地になったが、この稲荷社は残され郷土の守護神となった。昭和29年に戦後の荒廃した稲荷社を整備したそうです。

押上天祖神社

押上天祖神社の所在地:墨田区業平2丁目13−13

東京スカイツリーに程近い場所にあるのが押上天祖神社です。
神社の境内では、近くの幼稚園児たちが境内を走り回って遊んでいました。

境内に金属板でできた由緒書きがありました。

押上天祖神社
押上天祖神社

延元年間(1336~1339年)より祀ってあったという。当時は周囲は海であったが、ここは柳島と言われる陸地(島)で古くから人が住んでいた。花園天皇時代(1297~1348年)に神明社と称した。
祭神は天照大御神と八幡、春日両大神。
呼名を朝日神明宮と云われた時代があった。
徳正寺持ちであったが、明治の神仏分離で、牛島神社の末社となった。

平川橋4丁目地域にあったのが、昭和3年の区画整理で、現在地に替地になった。
社殿は昭和20年に戦災で焼失したため、昭和27年に新築した。

押上天祖神社 社殿
押上天祖神社 社殿

流石に押上なので、スカイツリーが凄く大きく見えます。

スカイツリーと狛犬
スカイツリーと狛犬

神社の裏に出ると海抜表示があります。「海抜 ー0.2m」。
堤防が無ければ海の中ってことでしょうか?

押上天祖神社の境内社 三峯神社

江戸時代に書かれた新編武蔵風土記稿によれば、末社は三峯神社と稲荷神社だそうです。
稲荷神社はどこにいったのでしょうか?

押上天祖神社の境内社 三峯神社
押上天祖神社の境内社 三峯神社

添光稲荷

添光稲荷の所在地:墨田区吾妻橋3丁目1-7あたり

マンションの敷地の一角にあるお稲荷さんです。
マンション建設の時に地主の方が、残されたのでしょうか。

マンションの敷地とはフェンスで仕切られている事、入り口がオープンで公道に面していることから、一般の方の参拝が可能な稲荷社のようです。

添光稲荷
添光稲荷

福壽稲荷大明神 (個人持ち?)

福壽稲荷大明神の所在地:墨田区吾妻橋2丁目5−1

鉄の門があるものの、参拝時は門が少し開いている状態でした。
その雰囲気から個人持ちの稲荷社と判断し、写真を撮らせていただいただけで、早々に移動しました。

福壽稲荷大明神
福壽稲荷大明神

牛嶋神社

牛嶋神社の所在地:墨田区向島1丁目4−5 隅田公園の中

隅田公園はとても大きな公園です。芝生の上では、幼稚園児や、まだ幼稚園にも行かないような小さなお子さんが遊んでいました。
この公園に一角にあるのが「牛嶋神社です」。

隅田公園から見たスカイツリー
隅田公園から見たスカイツリー

平日の訪問でしたが、結構頻繁に参拝者が来られています。
外国人の方もカメラ片手に来られていたので、外国人向けのガイドブックに牛嶋神社が紹介されているのでしょうか。

牛嶋神社 一の鳥居
牛嶋神社 一の鳥居

貞観二年(860年)、慈覚大師の御神託により創建。以前は、弘福寺の西隣(向島5丁目)にありました。
現在地には、昭和7年に遷座したそうです。社殿は、総桧の権現造りだそうです。
正面の拝殿側から見ているだけだと、その大きさが実感しにくいですが、外周をぐるりと回ったりすると大きさを感じることが出来ます。

拝殿は鳥居が特徴的です。鳥居の両脇に更に鳥居が付いたような形、これ三ッ鳥居というもの。
東京では、牛嶋神社と銀座にある三輪神社(ビルの屋上にある小さな神社)だけで見られる珍しいものです。

牛嶋神社
牛嶋神社

牛嶋神社は、本所の総鎮守でした。

境内にある撫牛は、自分が悪いところを撫でると病気が治ると言われています。
撫牛の他にも、牛が境内にいるので探してみてください。

牛嶋神社 撫牛
牛嶋神社 撫牛

5年に1回行われる例大祭では、本物の牛が鳳輦(ほうれん)と呼ばれる車を引き町内を練り歩きます。

牛嶋神社の境内社 小梅稲荷神社

牛嶋神社社殿の右奥に、ひっそりあるのが小梅稲荷神社です。
かつて、この辺りは、向島小梅町という地名でしたが、どう関係しているのでしょうか?

牛嶋神社の境内社 小梅稲荷神社
牛嶋神社の境内社 小梅稲荷神社

三囲神社 (みめぐりじんじゃ)

三囲神社の所在地:墨田区向島2丁目5−17

隅田川沿いの道を歩いて行くと、大きな神額の付いた鳥居があります。
こちらの敷地が三囲神社なのですが、隅田川側からは入ることが出来ません。ぐるっと反対側に回ります。

三囲神社は兎に角、見どころが満載なので紹介するのも困ります。

三囲神社
三囲神社

創建は不明ですが、社伝では、創建年は平安時代初期に遡ると言われています。
三囲神社は、三囲稲荷とも言われている。

三囲神社は、三井財閥に関係の深い神社です。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社とした。
三井家のあった江戸本町から見て向島方向が鬼門であることや、「囲」の中に「井」があり、「三囲」が「三井」に通じると考えたようだ。

三囲神社 社殿
三囲神社 社殿

狛犬に注目してみよう

こちらの狛犬、ただの狛犬ではございません。
歯並びが綺麗なだけでも、ありません。

延享2年(1745年)、石工が和泉屋太郎介。マニアの間では名品と言われているとか、いないとか

三囲神社 狛犬
三囲神社 狛犬

取り敢えず、狛犬の周りをまわって全体を観察してみてください。

狛狐も特徴的です

笑うな!

三囲のコンコンさん
三囲のコンコンさん

たれ目の狛狐は、「三囲のコンコンさん」。亨和2年(1802年)奉納。

道標

何の説明板もありませんが、道標があります。
どこからか移して来たもののようです。

道標には、
正面「三囲稲荷大明神」、左側面「左 稲荷道」右側面「右 秋葉道」
裏面「●延三庚午年二月初●」(欠損などにより●は読めず)。寛延3年らしい。

三囲神社の境内にある道標
三囲神社の境内にある道標

三囲神社で年代が分かる中で一番古いもの 灯篭

宝永3年(1707年)の年号が入っているそうです。

三囲神社 灯篭
三囲神社 灯篭

三囲神社の境内社 大国神と恵比寿神

隅田川七福神巡りの、大国様と恵比寿様を担当する神社です。
七福神巡り用の大きな看板が出てました。

三囲神社の境内社 大黒神と恵比寿神
三囲神社の境内社 大黒神と恵比寿神

三囲神社の境内社 稲荷社

境内には多数の稲荷社があります。
一部には、白狐祠の神額が掛かるものがありますが、ほとんどが、お稲荷さんと判る程度にしか判別できません。

三囲神社の境内社 稲荷社
三囲神社の境内社 稲荷社
三囲神社の境内社 稲荷社
三囲神社の境内社 稲荷社

三越や三井家ゆかりのもの

三越のマークが入ったやつ

お客さんにお茶を出すためのお湯を沸かす銅壺(どうこ)の台石です。
実際に明治29年から昭和の初めまで使われていたと書かれてますが、どこの場所で使われていたのでしょうか。

三越マーク
三越マーク

三越で見たことがあるやつ

2009年に閉店した三越池袋店に実際にあったものが、ここに移設されました。
狛犬と同様に、神前を守っているそうです。

三越のライオン
三越のライオン

三角石鳥居

「三井邸より移す。原型は京都太秦・木島神社にある」と説明書きが出てました。

三角石鳥居
三角石鳥居

三囲神社の境内にある顕名神社

以前は柵の近くまで行けたようですが、今は、遠くの方からしか眺められません。

三囲神社の境内にある顕名神社
三囲神社の境内にある顕名神社

三井家の先祖を祀る祖霊社です。没後100年を経過した三井家当主夫妻が神として合祀されています。

長太郎地蔵尊

長太郎地蔵尊の所在地:台東区浅草3丁目7−8

googleマップでは「道引長太郎地蔵尊」と表示される場所です。

道引長太郎地蔵尊というようになったのは、50年ほど前からと言われています。
それ以前は、馬場尻地蔵といい元禄の時代から祀られているとのことです。

長太郎地蔵尊
長太郎地蔵尊

長太郎地蔵尊から100mほど進んだところに大学芋の専門店があります。車でワザワザ買いに来ている方を何人も見かけました。甘いもの好きな私には、とても気になるお店です。

箭弓稲荷神社 (やきゅういなりじんじゃ)

箭弓稲荷神社の所在地:台東区浅草3丁目19−4あたり

大学芋の専門店のところで、路地裏に入ります。
意外にも、誰でもWelcomeな感じの稲荷神社がありました。
由緒書きはありません。綺麗に整備されたお稲荷さんです。一段高くなったところに社殿があり、個人持ちという感じではありません。

箭弓稲荷神社
箭弓稲荷神社

江戸の町で稲荷信仰が流行ったのは、徳川が入城してからと言われています。中央区あたりでもお稲荷さんを良く見掛けますが、これは武家屋敷が多くあったからと言われています。台東区あたりは、どうだったのでしょうか。

太郎稲荷大明神 (経由地点に到着)

太郎稲荷大明神の所在地:台東区入谷2丁目19−2

下町の住宅街の中に太郎稲荷大明神はありました。
狭い参道の奥は、どうなっているのでしょうか。

ここを目ざして来たのには訳があります。
江東区で神社巡りをしていた数日前に、太郎稲荷を合祀したとする神社と太郎稲荷を遷座したとする神社の2つに出会いました。調べると、ここ入谷にも太郎稲荷があることが分かり来た次第。

太郎稲荷大明神
太郎稲荷大明神

太郎稲荷の御由緒から見ていきます。参道の入り口付近に、「旧月光町」というタイトルの看板があり神社の御由緒にも触れられています。

「太郎稲荷神社は、新堀川沿いにある立花家の下屋敷にあった。生い茂る樹木の奥に社殿があり、参詣する人でにぎわっていた。現在は、地元の人びとにより祀られ、祭礼などが行われている。」

太郎稲荷神社
太郎稲荷神社

太郎敬神旅行会の写真が所狭しと飾られています。

太郎敬神旅行会の写真
太郎敬神旅行会の写真

どうやら、江東区の2社よりも人気があるようです。どう見ても、こっちが本家本元のような気がしてなりません。その謎解きは、別の機会にして、先に進みます。

壽光稲荷大神

壽光稲荷大神の所在地:台東区入谷2丁目24−10

googleマップで、太郎稲荷からほど近いところにお稲荷さんがありそうなので立ち寄ってみました。

これはビックリの民家の中にあるお稲荷さんのようだ。
幟旗としめ縄がなければ、存在に気が付けない場所です。

草がうっそうと茂り、中の様子が分かりません。怖くて近づけない...うっ

壽光稲荷大神
壽光稲荷大神

秋葉神社

秋葉神社の所在地:台東区松が谷3丁目10−7

参道の入り口のところに、秋葉原の地名の由来になった神社と書いてあります。
興味津々なのですが、この場所からは神社らしきものが見えません。
秋葉神社とは、どんな神社だろうと期待に胸を膨らませて参道を進みます。

秋葉神社
秋葉神社

ビックリするする程、立派な社殿が鎮座していました。
社務所では、お守りが売られています。

秋葉神社 社殿
秋葉神社 社殿

由緒書きには、明治の初めに秋葉原駅周辺で起きた大火の跡に、火除け地が設けられ、その中に祀られたのが始まり。明治21年にこの地に遷座。
秋葉原の地名の由来は、秋葉神社があるっぱから来ていると書かれてました。

芝崎日枝神社

芝崎日枝神社の所在地:台東区西浅草3丁目8−1

建物の2階に社殿と事務所。1階は駐車場。
芝崎町西町会事務所が主役で、脇役が神社のようにも見えます。

神社の由緒書きは出ていなくて、町名の由来書きがありました。

芝崎日枝神社
芝崎日枝神社

表の張り紙によると、毎月15日が日枝神社の御縁日。その日は御朱印の対応が可能とありました。

感應稲荷神社

感應稻荷神社の所在地:台東区西浅草3丁目16

浅草国際通り沿いにあるのが、感應稲荷神社です。
感応稲荷神社とも表記するようなので併記しておきます。

由緒書きなど何もありません。仕方がないので、ネットから情報を拾うことにします。

感應稻荷神社
感應稻荷神社

ネットによれば、2つくらい説があるようなので、記録しておきます。

いずれも創建年は不明です。

【昔から、ここに遷座してた説】
古くから芝崎村に鎮座してきたが、天正19年(1591年)に本銀町(日本橋室町あたり)に遷座し、この頃より「感應稲荷明神」と呼ばれるようになった。その後も、文禄元年(1592年)、明磨三年(1857年)と鎮座地が移り、ついにはもとの浅草芝崎の地に落ちつき、鎮守神として人びとの厚い信仰をあつめている。

【日輪寺とともにやってきた説】
古くは芝崎村(現在の大手町)に鎮座してきたが、日輪寺とともに現在の地へ。

感應稻荷神社 社殿
感應稻荷神社 社殿

実は、ここには伏線があります。芝崎日枝神社のところにあった地名の由来の看板が役に立ちます。
芝崎の由来は、日輪寺にキーポイントがあります。芝崎村は大手町財務省付近とも神田橋御門内とも言われていてハッキリしません。その芝崎村にあった日輪寺が移転してきて、この地を浅草芝崎町というようになったのが明治2年。江戸時代の地図を見ると、既に日輪寺があり、このあたりは日輪寺門前町。
芝崎日枝神社があった辺りが門前町と表記されています。

感應稻荷神社の境内社 稲荷社

境内社もお稲荷さんのようです。

感應稻荷神社の境内社 稲荷社
感應稻荷神社の境内社 稲荷社

西浅草八幡神社

西浅草八幡神社の所在地:台東区西浅草2丁目14

境内に由緒書きが出ていました。

創建は、元禄13年(1700年)。豊前の国宇佐八幡宮の御神霊分神が祀られています。

西浅草八幡神社
西浅草八幡神社

由緒書きによれば、浅草田島町の鎮護として祭っている。誓願寺持ちであったが、明治に浅草神社の兼務社となった。戦災により焼失したが、昭和24年再建。昭和47年にコンクリート造りの社殿に作り替えた。
江戸時代の地図によれば、現在の場所は誓願寺の境内であった。

浅草神社

浅草神社の所在地:台東区浅草2丁目3−1

浅草ROXでトイレ休憩した後、浅草寺の境内を通って浅草神社に向かいます。
平日でも混雑していた浅草寺ですが、コロナの影響もあり、人出は少なめです。浅草近辺でも閉店してしまった飲食店が複数あるようです。

浅草神社
浅草神社

牛嶋神社周辺で見られたような七五三で着飾った子供の姿は皆無です。客層が違うのでしょうか。

浅草神社の社殿は、江戸時代初期の慶安2年に作られたもの。国の重要文化財に指定されています。

浅草神社 拝殿
浅草神社 拝殿

浅草神社の御由緒は、境内に表示されています。
創建年は不詳。慶安2年に徳川家康を合祀してから、3神を祀る神社として、三社様(三社権現)と呼ばれるようになった。明治元年に三社明神、明治6年に浅草神社と改称してきた。
例年5月に行われる例祭は「三社祭」として、あまりにも有名。

浅草神社の境内社 被官稲荷神社

境内社としては珍しく由緒書きの看板が出ています。

浅草神社の境内社 被官稲荷神社
浅草神社の境内社 被官稲荷神社

安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気が全快。安政2年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請したのが始まり。正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたもの。

浅草神社の境内社 被官稲荷神社の狛狐(右)
浅草神社の境内社 被官稲荷神社の狛狐(右)

被官という名称の由来は不明ですが、官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世を願っているようです。職人の子として生まれ、江戸火消しとして頭角を現し、いわゆる任侠の世界で生きていた人物ですが、大名とも付き合いがある中で出世魚のごとく財を成していったようです。

ここでの注目のポイントは、狛狐。写真のように右側の狛狐は「子取り」。良く見かけるものです。
そして左...何を持っているのでしょうか。何かを引っかける道具のようにも見えます

浅草神社の境内社 被官稲荷神社の狛狐(左)
浅草神社の境内社 被官稲荷神社の狛狐(左)

社殿の左後方に並べられている狐さん達にも注目してください。

福寿稲荷大明神

福寿稲荷大明神の所在地:台東区花川戸2丁目4−15 花川戸公園(北側)内

花井戸公園の中に、姥ヶ池という大して面白みのない池があります。
でも、姥ヶ池には、石碑が建っていて『姥ヶ池之旧跡』と記されています。説明書きの看板もあって東京都指定の旧跡の扱いです。

福寿稲荷大明神
福寿稲荷大明神

その池の真ん中にあるのが、こちらのお稲荷さん。鳥居もしめ縄もありません。無論、説明書きもありません。『福寿』という名から、福を招く願いが込められているんだろうなと想像できますが...
姥ヶ池の伝説と、どう繋がるのか...

それとも、公園が2つもできるほどの広い敷地は、何があった場所なのでしょうか。江戸時代の地図では、医王院 一ノ権現と出てきます。江戸名所図解では姥ヶ池は妙音院の北側にあり、弁天池と亡くなった娘を祀った弁天社の祠もあったといいます。若しかして、この祠が、ここにあるのでしょうか?

尚、現在の池は、姥ヶ池のイメージを再現した人口のものです。

嬉の森稲荷神社

嬉の森稲荷神社の所在地:台東区花川戸1丁目15−13

花川戸公園に程近い場所にあったのが嬉の森稲荷神社です。
最近建て直されたのか、すごく綺麗な神社でした。

由緒書きは出ていません。今回もネットから情報を拾ってくることにします。
どうやら、建て替え前は台東区教育委員会の看板が出ていたようです。

嬉の森稲荷神社
嬉の森稲荷神社

伝承によれば、嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森に祀られていた。嬉の森は、小さな丘で樹や竹が生い茂っていたという。その名の由来は明らかではないが、一説に、入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。ちなみに、嬉の森と呼ばれた森は、隅田川岸に数か所あった。

何度かの遷座の末、この場所に鎮座されたようです。

船江神社

船江神社の所在地:墨田区東駒形1丁目18−10

駒形橋を渡り、墨田区に戻りました。
住宅街を進んでいくと、船江神社があります。

由緒書きが出ていますが、1200年前の物語から始まっているので、少々、話が長くなっています。

船江神社
船江神社

少々読みにくい文書ですが、創建は元慶元年(877年)と記載されています。その古さと現在の姿がアンマッチな気がします。
どうやら、創建年がはっきりする記録がなく言い伝えのようです。一説では寿永年間(1182~1184年)とも言われてますが、古いことは間違いなさそう。折角なので、「へー」って言っておきます。

船江神社 社殿
船江神社 社殿

船江神社は、初め朝日神明社と称し本所表町(現在の東駒形二丁目)に在りました。
その後、天祖神社と改称し、幕府船手奉行向井将監などの人々が船の安全を祈願しました。
明治維新後、神名を改め、普段呼ばれていた名前である船江神社とした。

玉林稲荷 (企業持ち)

玉林稲荷の所在地:墨田区東駒形1丁目7

民家の駐車スペースと、私道を通っていかないと辿り着けない場所にあります。
遠くから撮影だけして、先に進むことにします。

玉林稲荷
玉林稲荷

他の方が撮影した写真を参考に見ましたが、幟旗を見て納得。写真右側に写る企業の氏神様だと思います。

摂社若宮牛嶋神社

摂社若宮牛嶋神社の所在地:墨田区本所2丁目2-19 若宮公園内

若宮公園の一角に鎮座しているのが、摂社若宮牛嶋神社です。

境内に由緒書きはありません。
隣には、町会の集会場でしょうか、2階建ての建物と駐車場があります。

摂社若宮牛嶋神社
摂社若宮牛嶋神社

牛嶋神社の例祭では、牛嶋神社を出発した行列は、ここ若宮で一泊し、翌日、再び町内を練り歩いた後、本社に戻る行程で行われます。

いわゆる、お神輿の御旅所というやつです。三代将軍徳川家光が寄進した土地らしいですが、江戸時代の地図を見ると、現在の場所の直ぐ隣に御旅所がありました。その御料所に出来た仮宮が、摂社若宮牛嶋神社の始まりと言われてます。

摂社若宮牛嶋神社 社殿
摂社若宮牛嶋神社 社殿

境内の記念碑を見ると、現在の社殿は、昭和57年に造られたものらしい。
灯篭の年号は大正でした。

駒止稲荷神社

駒止稲荷の所在地:墨田区横網1丁目12−1 旧安田庭園内

旧安田庭園の中にある稲荷神社が、駒止稲荷神社です。
江戸時代は、本庄松平氏の下屋敷であり、大名庭園として整備されていました。明治33年に安田財閥が買取り、大正時代に東京市に寄贈されたものです。

旧安田庭園
旧安田庭園

こんな素晴らしい庭園に無料で入れるなんて、なんて幸せなんだろうと思います。
いつ行っても、サボり中のサラリーマンのおじさんがいますが、ちゃんと働こうよって毎回思う。

駒止稲荷
駒止稲荷

屋敷神にしては立派なお稲荷さんがあります。
社殿の前にある駒止石とセットで物語があります。駒止石の話しは民話レベルの物語らしく、どこまで本当なのか...

ここで注目したいのは、狛犬。左側の狛犬の頭に、ちょこんと乗っかっているのは宝珠。
ということは、右側の狛犬の頭の上には...

駒止稲荷 狛犬(左)
駒止稲荷 狛犬(左)

右側の狛犬の頭の上には、何も乗っかっていません。
欠けたのかと思って、何度も頭のてっぺんを見ましたが、角が生えていません。

駒止稲荷 狛犬(右)
駒止稲荷 狛犬(右)

宝珠と角のパターンは、江戸時代に登場して明治には消滅した狛犬のデザインだそうです。
それにしても、この狛犬の作者は何で角を生やさなかったんだろう。(ネットで見ると台座に昭和33年の年号があるという)

ゴール(両国駅)

JR総武線 両国駅に到着。平日の日中ということもあり、駅前の江戸NORENで遅い昼食でもと思ったが、コロナの影響で休業中のお店などが多くて、がっかり。

観光客が多かったエリアは影響も大きいようで大変そうです。

ゴール後、歩いてきたコースを確認すると、途中で見落として通過してしまった神社が2つあったことに気が付きました。残念ですが、そこは、また何か企画して歩くことにします。