【続編】亀戸駅から南側をぐるりと神社巡り

「亀戸駅から北側をぐるりと神社巡り」をした翌日、再び、JR総武線亀戸駅に降り立ちました。

今回は、亀戸駅の南側をぐるりと回って神社巡りをしてきます。
前回と違い、歩く範囲を事前に決めた上で、googleマップに表示された神社を全て巡ることにして歩き始めます。

今日歩くのは、JR総武線より南側の範囲。東は旧中川、南は小名木川、西は横十間川で囲まれたエリアです。

事前にgoogleマップを見た時に、稲荷神社の多いことに気が付きます。少し嫌な予感がしますが、どんな出会いがある神社巡りになるのでしょうか。

善治稲荷神社(企業持ち)

善治稲荷神社の所在地:江東区大島2丁目32−8 株式会社タケナカ

googleマップに「善治稲荷神社」と表示されるところに行ってみます。

本日、一発目から立ち入りのできない神社です。
公道側に向いていないので、一般の方の参拝お断りという感じです。こちらの会社の倉庫らしくトラックを含む営業車が出入りしているので、絶対に敷地内に入ってはいけません。
安全な場所で写真を一枚撮らせていただき、直ぐに次の神社に移動します。

善治稲荷神社
善治稲荷神社

大島愛宕神社 (おおじま あたごじんじゃ)

大島愛宕神社の所在地:江東区大島2丁目15-4

鳥居の脇に江東区が設置した看板がありましたが、その近くでお婆さんが熱心に草むしりをしていたので、今回は看板をスルー。

大島愛宕神社
大島愛宕神社

東京神社庁のホームページによれば、
創建年などの御由緒は文献が無く不明。
中之郷村(現在の墨田区内)に鎮座していたが、寛永年間(1624~44年)に同村民の移住とともに今の大島に転社し、氏神として厚く尊信されていた。大正12年に現在地に奉遷した。

明治の地図で中之郷村を調べると、押上駅の北側のエリアにあったことが分かる。
更に、大島愛宕神社がある大島2丁目は、中之郷出村という地名だった。

大島愛宕神社 拝殿
大島愛宕神社 拝殿

新編武蔵風土記稿によれば、大島愛宕神社の末社として稲荷があったそうです。
旧中之郷出村の範囲をgoogleマップで確認したが、それらしきものは現存していなかった。
それとも、どこかの旧家の庭先に稲荷社があるのだろうか。

江東区設置の看板の内容は、ネットから拾いました。
「小林一茶」が40代前半の頃、大島愛宕神社に仮住まいしていたと記述されています。
神社に仮住まいするって、どんな生活をしていたのか興味が湧いてきます。

豊見徳龍稲荷大明神(企業持ち)

豊見徳龍稲荷大明神の所在地:江東区大島3丁目13 鈴木鍛工所本店?

月極駐車場のようですが、訪問時は1台も車がいない状態でした。
鈴木鍛工所の看板が出ています。調べてみると、現在は社名が変わったようですが、駐車場の奥にある民家が本店所在地になっています。また、神額には奉納者として「鈴木長吉」とありました。

写真を撮るため、一歩だけ駐車場に入らさせていただきましたが、立ち入り禁止の場所かも...

豊見徳龍稲荷大明神
豊見徳龍稲荷大明神

亀出西部 子安稲荷神社

亀出西部 子安稲荷神社の所在地:江東区大島3丁目21-9

緑道公園の中を歩いて行くと、道路の右側に「子安稲荷神社」があります。
子安稲荷神社の境内には、昭和39年10月東京オリンピック記念と書かれた国旗掲揚台もあります。

亀出西部 子安稲荷神社
亀出西部 子安稲荷神社

境内に由緒書きの看板が出ています。

江戸時代の元禄年間中頃に村民によって創建された稲荷神社です。
元々は、緑道公園を北に行った左側(現在はミッドランドアベニューというマンションがあります)に鎮座していましたが、昭和30年に現在の地に遷座しました。
社殿は、平成27年に大改修をしています。

亀出西部 子安稲荷神社 社殿
亀出西部 子安稲荷神社 社殿

ところで、「亀出 西部」って、何でしょう。明治の地図には出てこない地名です。
明治の地図を見ていて気になったこともあります。○○出村という地名がいっぱいあります。
その殆どが、墨田区にある村の出村です。何故、このような大量の移住があったのでしょうか。
謎解きは、この後訪問する「亀出神社」で。

都電跡

子安稲荷神社を出て、緑道公園を北に進んでいくと、旧千葉街道とぶつかる手前に、都電跡を見ることができます。

実は、いま歩いてきた道が、かつて都電が走っていた線路跡。

写真にある都電29系統・38系統は、砂町線と呼ばれ、水神森と洲崎(東陽1丁目)を結んだ路線でした。
現在は、この線路跡が整備され、亀戸緑道公園、大島緑道公園、南砂緑道公園として残っています。

都電跡
都電跡

豊川稲荷神社(個人持ち)

豊川稲荷神社の所在地:江東区亀戸 6 丁目 5(旧千葉街道沿い角)

公道から自由に入れる場所に豊川稲荷神社の入り口があります。
その雰囲気から、個人持ちのお稲荷さんと思いますが、由緒などは不明です。

豊川稲荷神社
豊川稲荷神社

稲荷神社(亀戸平岩公園)

稲荷神社の所在地:江東区亀戸6丁目47 亀戸平岩公園内

近所の幼稚園児たちが遊んでいる公園内にありました。
googleマップ上の表示は「稲荷神社」。

素っ気ない表示ですが、公園には由緒書きの石碑まである、ちゃんとした稲荷神社です。
ですが、ここで不思議なものに遭遇します。

稲荷神社(亀戸平岩公園)
稲荷神社(亀戸平岩公園)

鳥居の横に由緒書きの石碑があります。

この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸に居を定めてから、大正の中頃まで、約300年にわたって平岩家代々の居所であった。
幕末より明治にかけて竹問屋として名を成した6代目平岩甚助の死後、昭和16年に、楠にかこまれた広大な敷地内にあった千坪の池が埋め立てられ、その一部約340坪が公園として寄付された。
現存する稲荷社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。

公園内の石碑より(一部修正・削除あり)
稲荷神社(亀戸平岩公園)石碑
稲荷神社(亀戸平岩公園)石碑

赤い鳥居、祠の前の狛狐、そして石碑には「稲荷社」の文字。
どこをどうみても「稲荷神社」なのに...

弁財天様からのお願い
弁財天様からのお願い

弁財天様からのお願い』の看板!しかも、池のところにお姿を現している上に「私はここにいます」ってセリフまで...

ここは、稲荷神社なの?弁財天なの?
確かに、祠の周りに池があります。いかにも弁天池風。

稲荷社だと思って整備したら、実は弁財天様だったなんて落ちはないよね?
こういう時こそ、江東区教育委員会の出番なんだけど...

尚、2014年に撮影された他の方の写真を見ると、当時は「弁財天様からのお願い」の看板と狛狐は、まだ設置されていない。

亀出神社

亀出神社の所在地:江東区大島3丁目31-7

境内に由来書きがないので、ネットに情報を頼ることにした。

前身は亀出稲荷神社と愛宕神社。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代(17世紀末から18世紀初)に松平定儀が別邸を築くに際して鬼門除として創祀した亀出稲荷神社と、寛文12年(1672年)に亀戸出村にあった霊巌寺領の鎮守として創建したと言われている愛宕神社を、昭和31年(1956年)に現在地に合祀して成立した。昭和48年(1973年)には大島1丁目に鎮座していた草分稲荷神社を境内へ合祀している。

wikipedia

上記のwikipediaの筆者が参考にしたサイトは、亀戸香取神社の公式サイトらしいが、2020年10月時点で、亀戸香取神社の公式サイトが閲覧不可の状態のため、原文のまま転載させていただいた。

亀出神社 一の鳥居
亀出神社 一の鳥居

さて、鎮座している場所だが、どう見ても児童公園(大島三丁目児童遊園)の端っこを間借りしている風にしか見えない。どうしても私には、ここが神社、つまり神聖な場所のように感じられないのである。

亀出神社
亀出神社

さて、この場所は「亀出」といわれる場所だったのだろうか。
某サイトによれば、大島村は、その昔は亀戸出村という場所だったと書かれていたりする。
その理由(根拠)に、江東区の民俗(城東編)の記載内容を挙げている。

こう書かれている(要旨)「享保10年(1725年)奉納の地蔵像に亀戸出村講中と彫られている。愛宕神社周辺を亀戸出村と称していた名残。竪川が万治3年(1660年)に掘られた際に、亀戸村から切り離されたためにこのような地域名を唱えるようになった」

違うんでないかいと異を唱えておきたい。
根拠はないです、自分が感じる違和感だけ。

なので、この答えは後日、別のコンテンツで行います。

亀出神社の境内社 草分稲荷神社

境内に御由緒書きがあります。(助かる~)

江戸川時代初期に、現在の大島1丁目37番あたりの草むらにあった祠が始まり。
城東地区は農業が盛んだったこともあり、稲荷神社が多い。特に徳川2代から5代の頃(1596~1688年)の稲荷社が多くなっている。
その後、昭和15年に城東区役所の庭、昭和48年の江東区民センター建設を機に現在地に遷座。

といった内容のことが書かれています。(一部、理解不能だったので不正確かも...)

亀出神社の境内社 草分稲荷神社
亀出神社の境内社 草分稲荷神社

亀出神社の境内社 亀出子育て地蔵尊

この地蔵尊に亀戸出村講中と彫られているのでしょうか。

亀出神社の境内社 亀出子育地蔵尊
亀出神社の境内社 亀出子育地蔵尊

稲荷神社

稲荷神社の所在地:江東区大島4 丁目 21 大島4丁目第2公園内

都営住宅に囲まれた公園にあったのが、稲荷神社です。

由緒書きもありませんが、鳥居の裏に奉納者が地主の方であること、明治21年の建造であることが書かれていました。

稲荷神社
稲荷神社

それ以上のこと何も分からないので、先に進みます。

正一位 稲荷大明神(月極駐車場内・企業持ち)

正一位 稲荷大明神の所在地:江東区大島5丁目28 月極駐車場内

月極及びゴルフ練習場利用者駐車場にありました。
幟旗を見ると、すべて同じ企業の方が奉納しています。調べると、この駐車場隣にある企業でした。

googleマップに表示されなければ、絶対に訪問しなかった場所です。
駐車場利用者でない私が、この場所へ立ち入ることが許されるのかは良く判りません。

正一位 稲荷大明神
正一位 稲荷大明神

大島稲荷神社 (おおじま いなりじんじゃ)

大島稲荷神社の所在地:江東区大島5丁目93

小名木川の畔にあるのが、大島稲荷神社です。
木や草がうっそうと茂り、中をうかがい知ることができません。

大島稲荷神社
大島稲荷神社

神社の入り口に御由緒書きや松尾芭蕉像など色々なものが並んでいます。

説明書きには、松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社とあります。
別の看板では、小林一茶が詠んだ句も紹介されてました。

大島稲荷神社 松尾芭蕉像
大島稲荷神社 松尾芭蕉像

大島稲荷神社の狛犬は、思わずシャッターを切りたくなるような良い感じの狛犬でした。
江東区の登録文化財になっているそうです。

稲荷神社ですが、狛犬なのは...多分、宮司さんにしか分からないことだと思います。

大島稲荷神社 狛犬
大島稲荷神社 狛犬

拝殿の左横に立て看板が出ています。
神社参拝の御利益を書いているんだと思いますが、「出世の第一条件は運」。だから、神社にお参りしましょうって趣旨のことが書いてあります。
SNSだったら大炎上の予感...

大島稲荷神社 拝殿
大島稲荷神社 拝殿

御由緒を最後に確認しておきます。こちらの神社には、公式ホームページがあります。

小名木川に近いことなどもあって、常に洪水などの水害に悩まされがちな土地柄でした。
それを憂いた当時の村人たちが平安を祈って相謀り、京都伏見稲荷大社御分霊を奉還し、この地の産土神として現在の場所に祀ったのが慶安年間(1648年から1652年)といわれています。

公式ホームページから引用

さて、ここからが大混乱になる話が始まります

明治30年6月には浅草光月町入谷田圃にあった太郎稲荷(旧柳川藩立花家下屋敷邸内社)、
そして昭和19年6月には現在の丸八通り・丸八橋付近にあった愛宕神社が合祀される。

公式ホームページから引用

当神社は小林一茶ゆかりの地でもあります。
一茶の『享和句帖』には「江戸本所五ツ目大島  愛宕山別当 一茶園雲外」と署名があります。
この「愛宕山」とは、当神社と合祀された愛宕神社を指すと言われており、一茶は享和3年から4年にかけてこの愛宕神社の一角に住んだとされています。

公式ホームページから引用

まず、最初の大問題です。

太郎稲荷や立花家下屋敷の話しは、最近聞いたばかりです。
そう、昨日訪問した江東天祖神社に太郎稲荷がありました。
江東天祖神社の境内社として太郎稲荷が実存しているのに、大島稲荷神社は合祀したと言う。
でも、それだけじゃないんです。他の場所(入谷)にも立花家下屋敷の太郎稲荷があるんです。
いったい、どうなっているんだ~

ふたつめの大問題は、

小林一茶が住んでいた愛宕神社は、どこの愛宕神社ってこと。
現存する大島愛宕神社なのか、大島稲荷神社が合祀した愛宕神社なのか...
愛宕神社が登場するのは、本日3回目。亀出神社の由来でも愛宕神社との合祀が出てきてました。
こんな狭い範囲に愛宕神社が3つもあるなんて不思議。

大島稲荷神社の境内社 佐竹神社

草がうっそうと茂る先にあったのが、境内社の佐竹神社。
更にその奥にも稲荷社らしき小さな祠が見えますが、草ぼうぼうの参道を通り抜ける気になりません。

大島稲荷神社の境内社 佐竹神社
大島稲荷神社の境内社 佐竹神社

境内にある大島稲荷神社の御由緒書きを見ると、佐竹神社は

第6代の宮司、佐竹良子さんが、昭和63年に造営したとあります。第5代の宮司さんも佐竹姓なので、佐竹一族の神社なのでしょうか。御利益は、「神官、学問」とあります。

宝塔寺(塩舐め地蔵)

宝塔寺の所在地:江東区大島8丁目38-32

宝塔寺は真言宗のお寺さんです。山号が稲荷山、院号が小名院といいます。
山号にピンと来るものがあります。お稲荷さんが関係するお寺さんだ!

昔は、隣接する場所に小名木稲荷神社がありました。戦災で焼失したため、東大島地区の他の4つの神社と合併し東大島神社となったそうです。(江東区の民俗(城東編)を参考にしました)

宝塔寺
宝塔寺

宝塔寺 塩舐め地蔵

塩の袋が、お地蔵さんの前に、山のように積み上げられています。

さて、由緒ですが2か所の看板に書いてあることが微妙に違うので、困ったものです。

宝塔寺 塩舐め地蔵
宝塔寺 塩舐め地蔵

塩舐め地蔵尊の前にある看板では、

石井某によって小名木川から掘り出され宝塔寺に納められた。小名木川は慶長年間に開削されたので、宝塔寺の開創(慶長15年)とともに境内に安置されたのものでしょう。

地蔵尊の前にある看板

宝塔寺の入り口前の看板

塩なめ地蔵は、もとは、小名木川沿いにあったものを昭和初期に移したものです。

宝塔寺の入り口前の看板

「この看板設置したやつは出てこい!」って感じでしょ?

笠間稲荷神社(企業内)

笠間稲荷神社の所在地:江東区大島8丁目33−26 国土交通省小名木川出張所内

また、立ち入りが出来ない稲荷神社でした。
ある程度、覚悟はしていましたが、ここまで多いと笑うしかないです。

それにしても、遠い。

笠間稲荷神社(国土交通省小名木川出張所)
笠間稲荷神社(国土交通省小名木川出張所)

東大島神社

東大島神社の所在地:江東区大島7丁目24-1

新大橋通りから一本奥に入ったところに東大島神社があります。
想像していたより、綺麗で大きな神社でした。

東大島神社には、公式ホームページがあります。公式ホームページの内容も参考にしながら、境内を見て回ります。

東大島神社
東大島神社

公式ホームページの由緒書きより、
江戸時代中期に小名木川水運をもとに村々が栄え、その鎮守様として五つの神社(永平神社、子安神社、小名木神社、北本所牛島神社、南本所牛島神社)が建てられました。
昭和20年の東京大空襲により焼失。
再建のため、昭和27年に五社を合併し現鎮座地に社殿が建立された。
傷みが多くなったので昭和57年に現社殿を建てた。

一段高くなった場所に社殿があります。境内自体も盛土がされて周囲より高くなっています。

東大島神社 拝殿
東大島神社 拝殿

御祭神は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、牛島大神(うしじまのおおかみ)、稲荷大神(いなりのおおかみ)。

境内にある文化財は、焼失した5社の境内から集められたものですが、資料も焼失したため詳細は不明とのこと。

東大島神社の境内社 大黒社(造営中)

もう少しで完成しそうな大黒社がありました。
大国じゃなくて、大黒のようです。

東大島神社の境内社 大黒社(造営中)
東大島神社の境内社 大黒社(造営中)

東大島神社の文化財 六角石塔

小名木神社にあったもの。文政6年(1823年)の奉納。
6面に文字が彫られている。
確認できる表面では、「道祖 猿田彦命」「大山祗命」。
説明書きによると他の4面には「罔象女神」「埴山媛命」「天鈿女命」、
「文政六葵未歳立秋吉日 神富斎宮」とあるそうだ。

東大島神社の文化財 六角石塔
東大島神社の文化財 六角石塔

東大島神社の文化財 豊栄社 石祠

小名木神社にあったもの。文化2年(1805年)の奉納。

東大島神社の文化財 豊栄社 石祠
東大島神社の文化財 豊栄社 石祠

東大島神社の文化財 庚申塔

南本所牛島神社にあった青面金剛像。天明七年(1787年)の奉納。

東大島神社の文化財 庚申塔
東大島神社の文化財 庚申塔

東大島神社の文化財 水神宮 祠

小名木神社にあったもの。宝暦11年(1761年)の奉納。

東大島神社の文化財 水神宮 祠
東大島神社の文化財 水神宮 祠

東大島神社の文化財 力石

重さは50貫(187.5kg)
見た目より、かなり重いことにビックリ。更にこんな重いものを昔の人たちが持ち上げていたことにもビックリ。

東大島神社の文化財 力石
東大島神社の文化財 力石

稲荷神社(マンション敷地内)

稲荷神社の所在地:江東区大島7丁目23−12ジェフビル駐車場

契約者専用駐車場の奥にあったのが、こちらの稲荷神社です。
さい銭泥棒があったようで、「罰があたるぞ」と張り紙がしてあります。
さい銭があるということは、私有地ですが自由に参拝して良いということなのでしょうか。

稲荷神社(マンション敷地内)
稲荷神社(マンション敷地内)

伏見稲荷神社(マンション敷地内)

伏見稲荷神社の所在地:江東区大島7丁目14−5

マンションの駐輪場の真ん中にあります。
オープンな雰囲気から、参拝のための立ち入りは可としている気がしたので、正面から写真を撮らせて頂きました。

伏見稲荷神社(マンション敷地内)
伏見稲荷神社(マンション敷地内)

亀戸浅間神社 (かめいど せんげんじんじゃ)

亀戸浅間神社の所在地:江東区亀戸9丁目15-7

先ほどのマンション敷地内の伏見稲荷からは、そこそこ歩きます。
妙に区画整理された場所に鎮座しているのが、本日最後の参拝先である亀戸浅間神社です。

亀戸浅間神社
亀戸浅間神社

由緒書きの看板によれば、創建は大永7年(1527年)。

このあたりは、高貝洲(こうがいす)と呼ばれた場所だったそうです。
江戸時代よりも前は、江東区の海岸線は総武線が通っているあたりと言われてます。
さらに室町時代に遡れば、小村井あたりが海岸線です。この頃にやっと亀戸が島(洲)で地図に現れるような地形でした。
詳しく知りたい方は、縄文海進などのキーワードで調べてください。

神社の由緒書きでは、この洲に景行天皇が流れ着いた笄(こうがい)を祀ったとありますが、その時代(2000年前)は、まだ洲はないだろうと思われ、後付けの神話っぽい気がします。

亀戸浅間神社 拝殿
亀戸浅間神社 拝殿

本殿は昭和初期の造営です。戦災の被害を受けなかったとのこと。

平成10年に大島・亀戸・小松川防災再開発事業により、現在地に遷座。

亀戸浅間神社の境内社

境内の広く、色々な文化遺産が置いてある神社ですが、境内社は、控えめの2社でした。

亀戸浅間神社の境内社
亀戸浅間神社の境内社

亀戸浅間神社の境内社 稲荷神社

鳥居の左側にあったのが稲荷神社。
新編武蔵風土記稿には、亀戸村の項で冨士浅間社の末社に「稲荷」と記されています。

ところで、明治の地図で見ると、このあたりに「南本所出村」「北本所出村」という記述が見れます。
この出村って何なのでしょう?大正時代には消えてしまう地名です。

亀戸浅間神社の境内社 稲荷神社
亀戸浅間神社の境内社 稲荷神社

亀戸浅間神社の境内社 下浅間神社

鳥居の右側にあったのが下浅間神社。

亀戸浅間神社の境内社 下浅間神社
亀戸浅間神社の境内社 下浅間神社

水盤 有形民俗文化財

この水盤が、どう凄いのかは説明されていません。
取り敢えず、「へー」とか「ほー」とか言っておきましょう。

水盤 有形民俗文化財
水盤 有形民俗文化財

富士せんげん道道標 有形民俗文化財

説明板が設置されていました。
浅間神社、亀戸天神社、常光寺(六阿弥陀)、浅草への道しるべです。
その当時、どこが人気がある場所だったか知ることができます。

富士せんげん道道標 有形民俗文化財
富士せんげん道道標 有形民俗文化財

身禄歌碑 有形民俗文化財

説明書きがありません。江東区のサイトに行っても説明が一切なし。かなり不親切。
この看板設置したやつ出てこい! って気分です。

身禄歌碑 有形民俗文化財
身禄歌碑 有形民俗文化財

富士講の指導者に「身禄」という方がいらっしゃいますが、関係ある?
亀戸浅間神社の隣に、「亀戸の富士塚」がある。

有形民俗文化財 お地蔵さんたち

地蔵堂の壁に食堂のメニューのように、各お地蔵さんが何なのかとか、誰が何を奉納したとか、書いてあります。こちらの方の管理は神社が担当ではないのか、目の前に無人でしたが受付小屋がありました。

有形民俗文化財 お地蔵さんたち
有形民俗文化財 お地蔵さんたち

石造燈籠、城東鉄道の線路、敷石及修繕費奉納碑

社殿の左側に、ぎゅぎゅっと詰め込むような感じで、色々なものがあります。
左から、石造燈籠(有形文化財)、城東電気軌道の線路、敷石及修繕費奉納碑(有形文化財)

左から、石造燈籠(有形文化財)、城東鉄道の線路、敷石及修繕費奉納碑(有形文化財)
左から、石造燈籠(有形文化財)、城東鉄道の線路、敷石及修繕費奉納碑(有形文化財)

稲荷神社(企業内)

稲荷神社の所在地:江東区亀戸9丁目11−1 日本化学工業内

googleマップでは、「神社」とだけ表示される場所に行ってみました。
立派な神社、たぶん稲荷神社があります。
コンビニのところから続く入り口らしきものを見つけましたが、部外者立ち入り禁止の看板があり入れませんでした。こちらは、企業持ちの神社のようです。

稲荷神社(企業内)
稲荷神社(企業内)

再び亀戸浅間神社の前を通って、亀戸駅に向かいます。
信号を渡ると、ちょうど良い感じに斜めに京葉道路に向かう道があります。
この道が、かつて城東電気軌道が走っていた道です。

ゴールの亀戸駅へ

昔と言ってもそれ程前ではありませんが、亀戸駅南口の駅前にはサンストリートというショッピングモールがありました。

その2階に、貧乏神という神社があったと思うのですが、どこに行ったのでしょうか。

さて、今回の神社巡りは如何だったでしょうか。

私的には、とんでもないところに来てしまったという感じ。謎が謎呼ぶ展開に大混乱です。