今日は、JR総武線亀戸駅の北部をぐるりと一周して神社巡りをします。
2時間半から3時間程度で巡れる範囲を歩き回ります。
事前の調査もせず、googleマップを頼りに土地勘と合わせて、行き当たりばったりでの神社巡り。どんな出会いが待っているのでしょうか。
亀戸駅に降り立ったのは、平日の午前10時ころ。天気予報は曇りでしたが、小雨がぱらつく生憎の天気になってしまいました。
亀戸水神宮
亀戸水神宮の所在地:江東区亀戸4丁目11-19
JR総武線亀戸駅から明治通りを北に向かい、水神通りを進んだ先にあるのが「亀戸水神宮」です。
隣には交番があり、訪問時は警察官の方が、ジーと外を見ていました。
こちらの神社ですが、正式名は「亀戸水神宮」だと思うのですが、googleマップでは「亀戸水神社」の表示となっています。
境内に由緒書き(水神宮のしおり)があります。
新田開墾の初め土民が堤上に水神を勧請して水害を免れん為の祈願をしたものであり、その創立は享禄年間(440年前)であると思われる。
尚、御由緒書きに書かれた鎮座地は亀戸4丁目11-18。
門柱のところに表示されてる住所は亀戸4丁目11-19。
入り口が19号で、社殿が18号なのだろうか。それほど広くない境内なんですが。
この場所から120mほど離れた場所に、googleマップで「元天神塚」と表示される場所がある。
行ってみたが、マンションがあるだけで、石碑や説明板もなかった。
こちらの「元天神塚」は「亀戸天神社」の始まりの場所らしい。
それにしても「亀戸水神宮」を「亀戸天神社」や「亀戸香取神社」と勘違いしgoogleの口コミに投稿する方が多くて...
亀戸 石井神社(別名:おしゃもじ稲荷)
亀戸石井神社の所在地:江東区亀戸4丁目37-12
亀戸水神宮を出て、逆井の渡しから続く旧道を歩いて行きます。陸橋で蔵前橋通りを超えたら、一旦、旧道に別れを告げて裏道へ。目的地の「亀戸 石井神社」に到着です。
境内に由緒書きの看板も出ていますが、A4カラーコピーで作られたパンフレットが置かれているので、一枚いただきます。
祠の中には大きな「おしゃもじ」が飾られ、境内左には「おしゃもじ」を奉納する棚が用意されています。こちらの石井神社は、別名「おしゃもじ様」「おしゃもじ稲荷」と呼ばれています。
石井神社の由来ですが、石器時代の石棒をご神体とした神社でした。(現在、石棒はありません)
石棒は井戸の中から出てきたと言い伝えられています。井戸から出てきた石棒を祀る神社なので石井神社となったようです。弘仁2年(811年)に弘法大師によって発見されたと由緒書きにあります。
おしゃもじ様と呼ばれるようになったのは、「石神」の読み「しゃくじ」「さくじ」などから音転し、「おしゃもじ」となったとあります。
咳の病になった時は、しゃもじを奉納すると治ると言い伝えられてきました。
東覚寺 弁財天(亀戸七福神)
東覚寺の所在地:江東区亀戸4丁目24-1
この場所に寄ろうと思ったのは、どうしても、弁財天を確認しておきたかったからです。
その前に、東覚寺の由緒について
享禄4年(1531年)の創建と言い伝えがある真言宗のお寺さんです。
お寺を入ると右側に、弁財天があります。
もともと、弁財天は仏教系の神様とは言われているが、「鳥居」とセットで祀られていることが多いので、東覚寺では、どうなっているか興味津々でした。
いままで、他のお寺で見てきたような、「鳥居」や「しめ縄」はありません。
もうひとつ余計なことを言えば、
弁財天は人気のコンテンツのようで、参拝客が集まる=弁天通り商店街ができる。
弁財天と言えば、弁天堂の周りに池。
という更に2つのあるあるも、どうなっているか知りたかった。
東覚寺の弁天堂には、鳥居も商店街も池も無かった...
亀戸七福神巡りのコースになっているので、分かり易い看板が出てました。商店街はないですが、休日には参拝客で賑わいそうです。
亀戸開運稲荷
亀戸開運稲荷の所在地:江東区亀戸2丁目45−8
亀戸升本 すずしろ庵の店頭にある稲荷神社です。
お賽銭の代わりに、大根に水を掛けてくださいと書かれています。
こちらのお店は、亀戸大根を使ったお弁当が美味しいお店です。
一般論として神社にカウントして良いのかは置いておいて、googleマップに出てくるという時点で、私の中では神社巡りの対象にしてます。
鳥居の左横に置かれた亀戸大根のところに、「福わけ」という亀戸大根を使った商品の宣伝が、さらっと出てました。商売上手!
亀戸香取神社
亀戸香取神社の所在地:江東区亀戸3丁目57−22
スポーツ振興の神様として知られる「亀戸香取神社」です。
大きな神社ということもありますが、平日でも頻繁に参拝客がやってきます。
由来を見ていきましょう。
天智天皇4年(665年)に藤原鎌足公が太刀一振を納め香取大神を勧請されたのが当社の起こりです。
江東区のホームページより
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が香取神社に戦勝を祈願され見事乱を平定し弓矢を奉納、これを勝矢と命名されました。
今日ではスポーツ振興の神として広く崇敬を集めております。
新編武蔵風土記稿には、別の説が書かれています。
「天智天皇4年(665年)に藤原鎌足公が太刀一振を納め香取大神を勧請」の言い伝えは信じるに値せず。
寺社帳に、応安4年(1371年)鎮座の記述があるので、古社であることには異存ない。
亀戸香取神社は、亀戸村の鎮守でした。
亀戸香取神社の境内社 水神社、三峯神社、熊野神社
参道の右側にずらーと境内社が並んでいます。
右から、水神社、三峯神社、熊野神社。
「水神社」…天明6年(1786年)建設。その年の水害をきっかけに災害防止を祈願。
「三峯神社」…亨保年間(1716~1735年)に建設。梅屋敷にあったものを明治の末頃移設。
「熊野神社」…梅屋敷隣り北の方にあったが、大正13年に北十間川拡張工事のため移設。
亀戸香取神社の境内社 恵比寿神、大国神(亀戸七福神)
右から恵比寿神、大国神。
このふたつの神様は、亀戸七福神巡りの参拝スポットになっています。
御由緒などの説明書きでは、「福神社」としています。
元々相殿として祀られていた大国神だが、明治年間に、大国恵比寿神として祀られるようになった。
亀戸香取神社の境内社 稲足神社(いなたりじんじゃ)
稲荷神社じゃなくて稲足神社というのが、珍しい。
狛狐=稲荷神社じゃない、という勉強をさせていただきました。
明治以前は、普門院の主管。
明治12年に元渡辺稲荷神社、琴平神社を合祀。
明治35年、亀戸香取神社に隣接する地にあったが、境内に移設。
御祭神:面足神・惶根神、相殿に金山毘古神、宇迦御魂神
亀戸香取神社の境内社 天祖神社(入神明宮)
最後が天祖神社。
この天祖神社が、江東区内の中で最も古い天祖神社ということらしい...
由緒書きによれば、この地が海に囲まれていたころに、太平榎塚(たいへいえのきづか)に小祠を祀ったのが始まりという。
「江戸名所絵図」にも「神明宮」として描かれているそうだ。
昭和63年に移設して、亀戸香取神社の境内社となった。
吾嬬神社 (あづまじんじゃ)
吾嬬神社の所在地:墨田区立花1丁目1-15
読みは、「あずま」か「あづま」か悩むところ。
近隣の駅名は「東あずま駅」。観光協会のホームページでは「あづまじんじゃ」とフリガナがあります。
吾嬬神社の創建年は不明ですが、境内の案内板には「草創は遠く景行天皇(12代)の頃にさかのぼる」とあります。神話の時代まで遡っているのは、流石に眉唾ですが...
正治2年(1200年)に社殿を造営。嘉元元年(1303年)に吾嬬大権現と称したと書かれており、古くからある神社であることは間違いなさそうです。
吾嬬神社の御神木 楠(クスノキ)
御神木のクスノキは、既に枯れて根元の部分しか残っていませんが、かつての姿を偲ばせる立派なものでした。枯れて尚、存在感を見せる御神木でした。
吾嬬神社の本殿前にいる狛犬
奥の院とも呼ばれる本殿の手前には、小型の狛犬がいます。
写真では分かり難いですが、普段良く神社で見かける狛犬らしい形をしていません。
頭の上に何かが乗っかていて頭のてっぺんが尖っています。
狛犬の専門サイトで調べてみると、江戸時代に登場した狛犬のタイプで、角や宝珠を頭に乗せているようです。
写真手前の狛犬(吽:口が閉じている)は角、向こう側(阿:口が開いている)は宝珠のようです。
この狛犬には安政2年(1855年)の年号が刻まれています。
吾嬬神社の境内社 福神稲荷神社
境内に由緒書きがありました。
元亀戸4丁目地蔵川岸の畔に鎮座していた。1922年に吾嬬神社の旧社務所の場所に遷座。
1946年の吾嬬神社復興事業の際に、現在の場所に遷座した。
第二次世界大戦の時、周囲が被害を受けているのに、こちらの社殿は無被害だった。
この奇跡の社殿を出来る限り保存していく次第と書かれています。
豊栄稲荷大神(企業持ち)
豊栄稲荷大神の所在地:墨田区文花2丁目8-7
小村井香取神社の近くで、googleマップ上に「豊栄稲荷大神」と表示される場所に立ち寄りました。
企業の敷地内にある小さなお稲荷さんでした。
お参りするには企業の私有地に入らなければならないので、写真だけ撮らせていただきました。
小村井香取神社
小村井香取神社の所在地:墨田区文花2丁目5-8
境内の御由緒書きには、平安時代の末期に当地開拓のため千葉県香取郡から6軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守したそうです。
こちらの神社にはホームページがありますが、あまり情報を掲載されていないのが残念です。
新編武蔵風土記稿によれば、小村井香取神社は小村井村の鎮守だったそうです。
小村井香取神社の社殿は、昭和29年の建立。
本殿は流れ造り、拝殿は入母屋の流れ造りで総桧造りとなっています。
小村井香取神社の境内社 諏訪神社
社殿の左側に諏訪神社があります。
諏訪神社のところに置いてある手水鉢は、墨田区の登録文化財です。
こちらに彫られている文字(「禊盥」)を読めますか?
「禊盥」は「けいかん」と読みます。「みそぎ」をする「たらい」という意味。
元々は、本堂のところにあったそうです。文政11年(1828年)の奉納です。
小村井香取神社の境内社 4連の祠
社殿の右奥に入っていくと、何の掲示もない4連の祠があります。
新編武蔵風土記稿や墨田区の資料によれば、天祖神社、稲荷神社、水神宮、北野神社の4つが祀られているようです。
新編武蔵風土記稿が書かれた頃(1810~1830年頃)は、天神と稲荷だったので、2つ増えたんですね。
小村井香取神社の境内社 三峯神社
神額が出ているので、何の神様が祀られているか分かり良かった...
田丸稲荷神社
田丸稲荷神社の所在地:墨田区京島3丁目44−14 原公園内
曳舟たから通りを曳舟方面に進んでくると、原公園の中に「田丸稲荷神社」がありました。
原公園の雰囲気は、ちょっと怖くて、長居をしたくない感じです。
公園にたむろす男たちの目が、突き刺さります。
一歩路地を入れば、
良く言えば、昭和初期の下町が広がっています。
由来書きが境内にあります。
原 忠三郎という方が、神のお告げで、この地を開拓し、明治39年に稲荷神社を建てたそうです。
この地(墨田区京島)は、それ以来、大震災や戦災も逃れ、人々が暮らしています。
つまり、この神社のおかげで昭和初期の下町の情景が残っているということらしい。
田丸稲荷神社は、「財のたまる」「幸のたまる」「難を逃れる」神社としてあがめられている。
ギラギラした複数の視線を背中にあびながら、公園を後にしました。
私も神社のおかげで「難を逃れられた」ようです。
榎戸稲荷神社
榎戸稲荷神社の所在地:墨田区業平5丁目2−3
帰路につきます。曳舟たから通りを少し戻り、十間橋通りに出ます。
しばらく歩き十間橋を渡り、さらに進んでいき突き当りを右に進むと「榎戸稲荷神社」があります。
境内を見渡しましたが、由緒書きの看板が見つかりません。
一の鳥居でしょうか、どうしてそんな場所にってくらい変な場所に鳥居があります。
榎戸稲荷神社の境内社 榎戸不動尊
神社の中に不動尊がお祀りされているパターンは初めてです。
榎戸稲荷神社の境内社 冨士塚神社
境内に「冨士塚神社」と書かれた古い石碑があります。
この石碑の隣に「東京都柳元国民学校」の石碑(昭和19年建立)も並んで置かれています。
2つとも、近隣から移設されたもののようにみえます。
「東京都柳元国民学校」は、昭和18年に廃校になった小学校です。
このあたりは、明治から大正にかけて、柳島元町と呼ばれていた場所です。
その頃の地図を今昔マップで確認してみると、このあたりの外に、近隣にもう一つ、神社マークがありました。
江東天祖神社
江東天祖神社の所在地:江東区亀戸3丁目38−35
榎戸稲荷神社を出て東に進み、横十間川に掛かる「神明橋」を渡り、更に路地裏を進んでいくと江東天祖神社があります。
こちらの神社には、ホームページがあるので、そこに記載の内容で補完しながら境内の見て回ります。
現在の社殿は昭和3年から4年に掛けて建て直されたものです。
日本で最初の鉄骨筋コンクリート造りの社殿として神社史に名を遺したそうです。
この神社のある地域は、柳島と言います。周辺には、大島、京島、向島など島が付く地名の町が多く存在しています。それは、昔このあたりが湾の奥にあり小島が点在する場所だったことに起因します。
低地であることなどから度々水害に遭い、記録が残っていないが、言い伝えによれば、1400年前の推古天皇御代、聖徳太子作のご神像を御神体としていた。
永享年間(1429~1441年)に社殿崩壊し、天文10年(1541年)に再建が叶ったとあります。
天祖神社の境内社 福禄寿 (亀戸七福神)
御水舎の奥にあったのが、亀戸七福神の一つ「福禄寿」です。
七福神の中では、長寿や出世を担当する神様です。
中国・道教発祥の神様なので神社で見かける機会はあまりない気がします。
江東天祖神社の境内社 太郎稲荷神社
社殿の右にあるのが太郎稲荷神社です。
筑後柳川の大名、立花家下屋敷にあった代々の守護神を、江戸末期天祖神社境内に移したもの。
その始まりは、和銅4年(711年)に伏見稲荷の大神をいただいたところまで遡ります。
立花家下屋敷は、現在の千束2丁目と入谷2丁目にありました。
太郎稲荷神社は、小説の「たけくらべ」や落語の「ぞろぞろ」にも登場する稲荷神社です。
江東天祖神社の境内社 道祖神
道祖神がありました。
道祖伸は、東京の下町では、ほとんど見かけない神様です。
梅屋敷伏見稲荷神社
梅屋敷伏見稲荷神社の所在地:江東区亀戸3丁目51
細い路地を進んだ先にある稲荷神社です。
神額には昭和48年の奉納であることが書かれています。
江東区の区議会議員の方のブログによれば、梅屋敷にあった稲荷神社を地元の方が大切に保存されているとのこと。
こんな小さな稲荷神社ですが、毎年、初午祭が行われているとのこと。
期待せずにやってきた梅屋敷伏見稲荷神社でしたが、歴史があるお稲荷さんでした。
亀戸天神社 (別名:亀戸天満宮)
亀戸天神社の所在地:江東区亀戸3丁目6−1
このサイトでも何度か紹介していますが、学問の神様で有名な「亀戸天神社」です。
いつもはお願い事で行くので、要件を済ますと、とっとと帰ってました。
今日は、じっくり観光気分で境内を見て回ります。
大鳥居を抜けた先には池があり、3つの橋が架かっています。
3つの橋には、それぞれ意味があり、この橋を渡ることで心が清められるようになっています。
本殿の前に到着すると、七五三の準備と10月下旬の菊祭りの準備が進められているようで普段と様子が違っていた。
由来から見ていきましょう。
正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。
亀戸天神社 公式ホームページ
村に元々あった小さな祠という場所が、今日最初に訪問した亀戸水神宮の近くにあった「元天神跡」。
現在は、マンションがあるのみ、その痕跡はgoogleマップの中だけです。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
亀戸天神社 公式ホームページ
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。
亀戸天神社 手水舎
感染予防のため、手水の柄杓が使用できなくなっていました。
亀戸天神社 神牛
触ることで、病を治し、知恵を授かると言われている。
気が付いてもらえるだろうか、境内には狛犬も狛狐もいません。
神社(神様)ごとに、神の使いの動物が違います。
天満宮に、ウシは欠かせない存在なのだ。
ところで、何の張り紙もしていないが、感染防止で触らない方が良いのだろうか?
亀戸天神社の境内社 御嶽神社
菅原道真公の学問の先生を祀っているそうだ。
理由が良く判らないが、火災除け、雪除け、商売繁盛、開運に効くそうだ。
亀戸天神社の境内社 弁天社
亀が大量にいる池の中央付近にあるのが弁天社です。
亀戸天神社といえば、亀のいる池、梅、藤というくらい水と植物に溢れた観光名所です。
この社は、もともとは「志賀社」という水を守る神が祀られています。
藤、太鼓橋、池などで江戸時代に人気が出た折に、文人が上野不忍池に見立て「弁天堂」といったのが始まりだそうです。
亀戸天神社の境内社 紅梅殿
大宰府天満宮の御神木である「飛梅」の実生をお祀りしている社だそうです。
祠の前にさい銭箱があるが、こういった祠では何を願って手を合わせれば良いのだろう?
亀戸天神社の境内社 花園社
菅原道真公の奥様とお子さんが祀られています。
安産、子育て、子宝、立身出世の守護神として信仰されています。
亀戸天神社 筆塚
菅原道真公の筆跡が、神筆と言われていたことから、書道の神様として崇められてきました。
ゴールの亀戸駅に12時50分着
亀戸天神社の参拝後、亀戸駅に戻ったところで時間と歩数を確認。
3時間の歩きは、1万5千歩になっていました。
いつも通り、駅ビルで升本の弁当を買う気満々だったのですが、駅ビルの地下食品売り場は改装工事中。
残念~!
升本の路面店(すずしろ庵)まで戻る気にもならず、駅近のチェーン店で済ませてしまいました。
ここ数年は、亀戸天神社に行ったら升本の弁当というルーティンだったので、何か調子が狂います。
それにしても、毎回同じ弁当を買い続けるなんて...どんだけ好きなんだ。