築地本願寺を出発して新大橋通りの右側を進んで、ゴールの両国駅に行く。
という、たった一つのルールに従いながら神社巡りをしていきます。
今回のコースは、7つの神社を巡りますが、内6つが稲荷神社です。本当に中央区は稲荷神社が多い。
築地本願寺を出発
築地本願寺での所用を済ませ、両国駅に向けて出発したのは午後1時40分頃。
本堂に寄らなかったので、20分ほど早い出発となりました。
3連休の初日、コロナ前の賑わいには程遠いですが、ここ最近では一番の人出です。

今村幸稲荷神社
今村幸稲荷神社の所在地:中央区八丁堀3丁目24-11
驚くような場所にあったのが、今村幸稲荷神社。
2階にある神社ですが、その場所は安アパートの2階に上るような感覚の階段の先でした。

神社の名前は、個人名のような「今村幸」という強烈なメッセージがある稲荷神社です。
思わず、「今井幸」って何をした人なの?って質問が来そうですが、名も無き「今井」さんが、幸町に奉斎した稲荷神社ってことらしいです。

御祭神も、一般的な稲荷神社の御祭神ではなく「宇気母智神」だとか。食べ物の神様ということらしいのすが、さっぱり分からない。
日比谷稲荷神社
日比谷稲荷神社の所在地:中央区八丁堀3丁目28-15
商用車が止められた駐車場の奥に、日比谷稲荷神社はありました。
どこかの会社の守護神として祀られているのでしょうか。

予想に反して、宗教法人 日比谷稲荷神社設置の由緒書きが出ています。
「長禄元年(1457年)に現在の日比谷公園がある場所(日比谷海岸)に、太田道灌が稲荷神社の社殿を建てたのが日比谷稲荷神社の始まり」とあります。
そんなに歴史のある神社が、駐車場の片隅にこじんまりと鎮座していることに驚きます。
江戸時代の初め頃は、日比谷公園のあたりが海岸線だったんですね。

鯖断ちをして、日比谷稲荷神社に参拝すると虫歯が良くなると言われていたそうです。
お礼参りで鯖をお供えする方も多かったそうですが、匂いが凄いことになりそうです。
通称、「さばいなり」とも言われたそうですが、現在の社殿には、鯖に関係するものはなさそうです。
港区東新橋にも、日比谷神社(別名:鯖稲荷)があります。
由緒書きにもあるように、日比谷公園にあった稲荷神社は港区東新橋に遷座しましたが、崇敬者の願いにより、この場所に日比谷稲荷大神を祀ったのだそうです。
純子稲荷神社
純子稲荷神社の所在地:中央区日本橋茅場町3丁目13-6
建物と建物の間に、こじんまりと収まっているのが純子稲荷神社です。
何の期待も無く訪問したのですが、由緒書きがあるだけでなく、立派なパンフレットまで用意されている稲荷神社でした。

さて、御由緒ですが、先ほどの日比谷稲荷神社とびっくりするくらい同じような話しの展開です。
「長禄元年(1457年)、太田道灌が千代田城築城の際、京都伏見稲荷を勧請して北の丸に創建した千代田稲荷神社が始まり。元文2年(1737年)になり、当地への稲荷神社建立の勧請が行われ、千代田稲荷神社の分霊を祀る純子稲荷神社が創建した。」

「純子」の名の由来は、「純真な精神を子々孫々に伝え遺すにふさわしく」の意をもって命名されたそうだ。決して「八神純子」や「大橋純子」などの芸能人に憧れた訳ではない。

無料配布されているパンフレットは、厚紙を3つ折りした立派なものです。
印刷代と折り加工代を考えると、結構な金額のハズ。パンフレットを頂いた方は、100円以上のお賽銭を入れるようにしましょう。
明星稲荷神社
明星稲荷神社の所在地:中央区日本橋小網町4丁目9
日本橋小網町町会会館前にあったのが、「明星稲荷神社」です。

自治会のホームページに由緒が記載されてました。全文引用させていただきました。
明星稲荷は最初、太田持資公(道潅)築城の江戸城内大内山に鎮座していた。
中央区町会・自治会ネットワークのホームページより
徳川氏江戸入府後多数城内に奉斉の稲荷社を全部場外に移されたという。当時、地頭職に在った小網町浜口家にお下げ渡しになったのが明星稲荷で浜口家屋敷内に地守り神として祭られていた。
その後、浜口家所有地小網町4丁目に社殿健立、大正12年の大震災後区画整理により小網町3丁目現地に仮殿を建立、昭和8年浜口家並びに町内会役員の努力により立派に社殿復興し神徳を受ける参拝者でにぎわった。戦災の為焼失仮殿に奉安せられていました。
昭和43年6月、当時の町会長・町会役員が中心となり社殿新築の計画が打立てられ、幸い浜口家より所有地所の無償寄付を受け、明治百年記念事業として社殿並びに小網町会館建築が決定せられ町会会員等の資金のご援助を仰ぎ、現在の立派な社殿の再復興が実り御神徳は益々高揚している。
明星稲荷神社は「失せ物」を捜して頂ける神社として有名で、遠くは京都・大阪方面からの御参拝者もいらっしゃいます。
水天宮
水天宮の所在地:中央区日本橋蛎殻町2丁目4-1
旧社殿の時に訪問して以来の、かなり久々に水天宮を参拝。(前回は20年くらい前)
耐震設備を持つ最新鋭の社殿に生まれ変わっていました。

階段を上って境内へ入ると、七五三や初宮詣の方から観光客まで多数の方がいます。
拝殿の前には、参拝待ちの行列。
参拝を諦め、人の流れが切れたタイミングで写真だけ撮って退散。

水天宮の狛犬
ブロンズ像のようです。
ブロンズ製ということで、デザイン的に自由度が大きいのでしょう。玉は、かなり細かいところまで表現されています。

津田永壽作の狛犬です。津田永壽は大正4年生まれ、平成12年没。高岡銅器の作家のひとり。
この狛犬も、高岡銅器の製法にて作られたのだろう。
余談だが、高岡銅器でできた銅像は、亀有駅周辺で「こち亀」像として11体見ることができる。
水天宮の境内社 宝生辨財天
宝生辨財天専用の御朱印もあるので、境内社としては異例の、人気のある辨財天なのだろう。

水天宮の境内社 高尾神社
ホームページによると、高尾神社の御神徳は、雨。
雨の神様と聞くと、パッと思いつくのは龍神ですが、何の神様を祀っているのでしょうか。
一言で「雨」と表現しているが「雨乞い」なのか。

水天宮の境内社 火風神社
ホームページによると、火風神社の御神徳は、火と風。

水天宮の境内社 秋葉神社
ホームページによると、秋葉神社の御神徳は、鎮火。
御祭神は、秋葉大権現ということだろうか。

雨、火、風、火伏せ、この場所...という要素から想像したのは
「江戸の大火に見られるような大規模火災を防ぎたいという願いがこもった3社」
濱町神社、陶栄神社
濱町神社、陶栄神社の所在地:中央区日本橋浜町3丁目3-3
オフィスビルとタワーマンションがある敷地内にあるのが、濱町神社(以下、浜町神社)、陶栄神社です。
由緒書きの看板も出ています。

まだ15時前ですが、太陽の位置が低くなっているせいか写真に影が出やすくなってきました。
もう少し早い時間に出発すれば良かったと反省。
浜町神社
浜町神社は、江戸時代からこの場所にあったと言います。
江戸時代、この場所は島津家の下屋敷でした。
天明年間(1781-89年)に、屋敷の庭に島津稲荷大神を祀ったのが浜町神社の始まりと言われています。
明治20年に、この土地は、島津家の手から離れましたが、浜町神社は残りました。

関東大震災や戦災による焼失で、たびたび存続の危機がありましたが、その都度、再建してきたそうです。現在の社殿は、昭和28年に建立したもの。

再開発計画(現在のトルナーレ日本橋浜町)があり、社殿は若干移動するすることになった。
再開発計画では、社殿をトルナーレ日本橋浜町の屋上に移転する案も検討されたそうです。
境内社 陶栄神社
陶器で出来た社殿。
愛知県常滑市の総釉彩陶器製(秘色焼き)という焼き物らしいです。
説明書きには、昭和44年に再建と書かれていた。

台座部分には、平安時代や鎌倉時代、江戸時代初期の古い陶器の欠片を張り付けて飾りにしている。

珍しいものなので、「へー」とか「ほー」とか言いながら、じっくり見てみよう。
御祭神は、埴安大神。土の神様らしい。「それで、陶器の社殿なのかぁ、へー」
埴安大神の他に加藤民吉命、加藤四郎左衛門景正命も御祭神欄に記載がある。
加藤さん2人が誰かというと、瀬戸の陶工で、陶祖と呼ばれた瀬戸物界の重要人物です。「ほー、何でそんな神社がここにあるんだろう?」
瀬戸(尾張藩)の方ですが、島津家(薩摩藩)にも、この場所(浜町)にも関係を見出せません。
大廣神社
大廣神社の所在地:中央区日本橋浜町3丁目30-6
日本橋浜町の路地裏にひっそりと鎮座していたのが、「大廣神社」です。
都会の神社らしく、こじんまりとした境内です。

狛狐がいるので、稲荷神社のようです。
それ以上は分からないと思った時、社号の書かれた石柱の存在に気が付きました。

社号が書かれた石柱のところに、次のようにあります。

合祀記念
大橋稲荷神社、末廣稲荷神社
大廣神社と改称す 昭和42年10月吉日
新大橋から隅田川を望む
今日は一日晴天で、とても気持ち良く歩けました。
隅田川には、空の青さが写りこんで、独特の色合いを醸し出しています。
遠くには、隅田川に小名木川が合流する風景が広がっています。

もう少し暖かかったら、ビール片手に橋の上から景色を眺めるのも良さそうです。
ゴールの両国駅
ゴールにたどり着いた時の歩数は約8千歩。所要時間は1時間40分でした。
新大橋通りからは、1~2本裏道を歩くことが多かったですが、あまりジグザグせず歩けたことで、少なめの歩数になりました。

次は、どんなルートで築地まで歩こうかな。