今回は、市川市北部の曽谷、下貝塚、大野町、北方町で石造物を探して歩き回ります。
庚申塔や神社、路傍の神様だけでなく、普段は立ち寄らない公園の祠などにも寄ります。
七面大明神
七面大明神の所在地:千葉県市川市曽谷3丁目11
七面大明神は、鳥居と祠、「七面大天女神」と書かれた石板だけあります。
「七面天女」は、日蓮宗の法華経を守る神様だそうです。
道路を挟んだ向かい側に、お寺さんがありました。
そのお寺さんは、現得山蓮正寺。日蓮宗のお寺さんです。
市川市のホームページによれば、昔は蓮正寺の境内に七面大明神があったそうです。
市川市の資料では、周囲にあった池は埋め立てられたことになってますが、祠の裏に池があります。
埋め立てた後、また池を作ったのか。
弁天様には池と同様に、女神である七面大明神にも池なのでしょうか。そうなると他のお寺にある七面大明神が見たくなります。
弁天池公園の妙曽池端辨財天
弁天池公園の所在地:千葉県市川市曽谷2丁目33
松戸市との境目に近い場所にあるのが、弁天池公園です。
池の水は湧き水で、縄文人が飲料水として利用していたといいます。
弁天池というくらいですから、弁天様が祀られているだろうとあたりをつけてやってきました。
鳥居と祠は、随分と離れています。鳥居の奉納年を確認すると昭和36年。
橋を渡って、祠の方に行ってみます。
祠の前に、弁財天と書かれた木板があります。そこに描かれた弁天様は今時風の美女顔。
木製の祠の中には、更に石祠があります。
石祠に書かれた文字は、「妙曽池端辨財天」。石祠の前には、なぜかラクダの置物。
弁天様の乗り物は、ラクダだったけ?と、思わず検索してみます。
辨財天の名前の一部になっている「池端」は、この辺りが「池之端」と呼ばれていたからだそうです。
松戸市側の台地になった場所が「池の台」。
明治時代の地図では、「木戸前(松戸市側)」という字名が確認できます。
弁天様が出来る前は、弁天池は「じゅんさい池」と呼ばれていたようです。
石祠は側面や裏面を見ることはできませんが、鳥居の横あたりにある石碑の奉納年は昭和24年。
今昔マップon the webでは、このあたりに神社マークが付くのは1960年代(昭和30年代)から。
つまり、鳥居が昭和36年に奉納されてから地図上に神社マークが表示された...
木戸口庚申塔
木戸口庚申塔の所在地:千葉県市川市下貝塚2丁目33−9
木戸口庚申塔は、下貝塚にあります。下貝塚2丁目あたりの、昔の小字名が「木戸口」です。
ここには、3つの庚申塔があります。青面金剛像が2つ、文字タイプが1つです。
さっそく、右端から見ていきます。
右端の「青面金剛像」は、「亨保五庚子正月吉日」と青面金剛像の左に書かれています。
青面金剛像の下には三猿。亨保5年(1720年)の庚申塔でした。
中央の「青面金剛像」は、右側面に「下総国葛飾郡貝塚村」と刻まれています。
左側面に年号があったらしいのですが、見忘れました。手元の資料では、亨保17年(1732年)の庚申塔。青面金剛像の下に三猿も描かれています。
左端の「庚申塔」と書かれたものは、文字の下に三猿が描かれ、右側面に年号があります。
「文政十一戊子年三月●●」。文政11年(1828年)の庚申塔でした。
ところで、なぜ、この場所の小字名は「木戸口」なのでしょうか。
「木戸口」は砦や家の出入口の意味。ここに何かの出入口があったのか。
先ほどの弁天池公園の松戸市側は、八柱村木戸前という地名でした。(明治時代)
下貝塚の隣は曽谷という集落。その昔、曽谷城があったといいます。何か関係があるのでしょうか。
こんこん様(諸供養塔)
こんこん様(諸供養塔)の所在地:千葉県市川市下貝塚2丁目34−15あたり
こんこん様の場所は、住宅街の中にある上、ここを紹介するサイトが殆どないので、すごく探し難いです。
こんこん様は通称。地元では、咳や風邪に御利益があるとされている路傍の神様です。
木製の祠の中に、石祠があります。
石祠の正面には、「妙●眞淨日●●●」と読めますが、●が多過ぎ。こういう時は、市川歴史博物館発行の「市川市の石造物(市川市石造文化財調査報告書)」の出番です。
不明な文字を埋めると「妙法眞淨日唱法師」。この文字の右側に「安永二年」、左側に「二月十九日」とあるそうです。安永2年(1773年)の諸供養塔でした。
下貝塚にある本住寺は「日唱」によって開山されたと伝えられる。
大野新田庚申塔
大野新田庚申塔の所在地:千葉県市川市大野町1丁目23−1 花樹の前
大野新田庚申塔は、花屋さん(園芸用品店)の斜め前にあります。
庚申塔は、全部で3つ。両サイドが「帝釋天王」、真ん中が文字(お経)だけのタイプです。
木戸口庚申塔からは400mほどしか離れていませんが、タイプの違う庚申塔でワクワクしてきます。
まずは、それぞれの庚申塔の年代を見ていきます。
右端の「帝釋天王」と書かれた庚申塔は、
「天保九戊戌年三月吉日 大野村」と右側面にあります。天保9年(1838年)の庚申塔。
台石はコンクリートで隣の庚申塔とつなげられてしまってますが、台石のところに三猿が描かれています。
中央の「南無妙法蓮華経」と書かれた庚申塔は、文字の下に三猿があります。
左側面に「天明八戊申歳 霜月二日」。天明8年(1788年)の庚申塔。
台に文字が入ってたらしいのですが、お花があったので気が付きませんでした。
左端の「帝釋天王」と書かれた庚申塔は、
左側面に「慶應四●●十月吉●」と読めます。慶応4年(1868年)の庚申塔。
台石に三猿が描かれています。
ところで、「南無妙法蓮華経」も「帝釋天王」も日蓮宗の関係。
大野新田は、日蓮宗のお寺さんの影響が強かった地区のようです。
青松庵会館の庚申塔などの石造物
青松庵会館の所在地:千葉県市川市大野町1丁目85
入れないことは分かっていました。
門の中に入られる猛者もいるようですが、私には錆び付いた閂(かんぬき)を動かして敷地内に入る勇気が出ません。(ネットでいくら検索しても管理者にたどり着けません)
青松庵会館にあった石造物は、全部で15個。塀の外から、いくつまで確認できるのでしょうか。
ちなみに、「市川市の石造物」に掲載されている石造物は、10個だけ。
一番、塀に近いところの石造物が背が高く、奥に行くほど低くなっています。
手前の方の石造物はパソコンに取り込んだ写真から文字が確認できそうです。
一番手前は、三猿があり、文字は「天文二」「十月」「南無妙法蓮華経」の文字が見えます。
天文2年(1737年)の庚申塔と識別出来ました。
次が厄介です。釈迦如来像と思われますが、文字を確認できません。
高さなどから推定で、寛文9年(1669年)の庚申塔。
右から3つ目は、青松庵会館建設記念碑。
記念碑から燈籠までに挟まれた5つの石造物が難しい。
手前から、明治14年の日蓮聖人供養塔、ひとつ飛ばして、正徳6年の庚申塔。
飛ばした石造物は右側面の文字が読めるものの、手元の資料に該当するものがなく不明。
やはり、正面でじっくり観察しないと無理。
折角なので、青松庵の縁起を記載しておきます。(注:原文のままではありません)
慶長11年(1606年)の創建。安永3年(1774年)に再建。その後、何度か修理を行う。最後は大正14年に修理を行ったが、老朽激しく維持困難となった。村中で教護した結果、新築・再建することとなり今日の青松庵となる。 昭和48年11月17日建之。
現在は、青松庵会館という名称で、建物は公民館のような感じ。市川市のホームページに市の施設として出ているかと思いましたが未掲載。門柱の錆び付き具合から見て今は殆ど使われていないようです。
謎の石造物
謎の石造物の所在地:千葉県市川市南大野1丁目32−1のあたり
ここを訪れた理由は、ただひとつ。
市川市のホームページで、この辺りに道標があるとされていたからです。
googleストリートビューで見ると、確かに石造物が確認できます。
実物を確認するため、どうしても行きたかった場所です。
上部がぽっきり折れて欠損した石造物が道端にあります。
残っている文字は「妙宣霊尼」「日」....
道標には見えません。どちらかと言えば、古い墓石。
墓石だとすると、何でこの場所にひとつだけ?という疑問が残ります。
ちなみに、「市川市の石造物」には、この石造物も道標も掲載はありません。
天神社
天神社の所在地:千葉県市川市北方町4丁目2049あたり
宗教法人登録された住所は、市川市北方町4丁目2050なのですが、そこを地図で検索すると自治会館にたどり着いて途方にくれることになります。地図アプリを使う時は北方町4丁目2049で検索すると良いでしょう。
幹線道路から、天神社に向かう道路の入口には大きな看板が出ているので見落とさないようにしましょう。でっかい看板があるのは、入口が見つけられずに道を聞く方が多いのでしょう。
由緒書きは出ていません。
市川歴史博物館の調査資料では、「天神社」ではなく「天満宮」と表記されています。
理由は分かりません。
狛犬は平成4年のもの。鳥居は平成2年と、社殿以外は新しそうです。
市川歴史博物館の調査は平成2年。調査報告書には鳥居も狛犬も未掲載です。
つまり調査時点では、鳥居は木製または無い状態、狛犬も設置されていなかったということです。
当時は木製の鳥居に、神額が出ていて「天満宮」と書かれていたのかもしれません。
社殿の上の方に、木札のようなものが出ています。残念ながら文字はありません。墨で書かれていたような、いないような状態。
困ったときの手水鉢
手水鉢の奉納年を確認します。
手水舎の柱がジャマをして年号が読み取れません。困ったものです。
右側面で、読めるのは「天保」「月吉日」など部分的。
それにくらべて左側面は、太陽光が当たり、隙間もあるので、奉納者の氏名がはっきり読めます。
ここで救世主として、「市川市の石造物」を取り出します。
資料によると、「天保五午年 十二月吉日」。天保5年(1834年)と判明。
次は天神社の境内社を見ていきます
境内社と認識できる石祠は2つあります。それ以外にも怪しげな石造物はあるのですが、怪しいだけでそれ以上は分かりません。
拝殿の左前にある境内社は、古峰神社
拝殿の左前にある石祠は、正面には文字がありません。台座に右から左の方向に文字が4文字。
「村内安全」と彫られてますが、「全」以外の文字は消えかかっていて風前の灯火。
石祠の裏側には、奉納年が書かれています。
「明治四十四年四月吉日」
これを手掛かりに、御祭神を調べます。
駄目もとで取り出した資料「市川市の石造物」に答えが載っていました。
石祠のどこにも書かれていませんが、「古峰神社」としています。
関係者にヒアリングされたのでしょう。
拝殿の左奥にある石祠は、稲荷神社
この場所には、「稲荷神社」とはっきり読める石祠の他、怪しげな石造物があります。
まずは、「稲荷神社」と書かれた石造物から観察します。
左側面は「十二月吉日」、右側面は「明治廿七年」。明治27年(1894年)の稲荷神社でした。
さて、怪しげな石造物ですが、ひとつ目は、稲荷神社の石祠のすぐ後ろ。
上部が欠損していますが、石祠でしょう。欠損し過ぎなので、何も分かりません。
左隣の丸石も怪しいといえば怪しいのですが...
本日のまとめ
最近は、道端で石柱を見ただけで、吸い寄せられるようになりました。
上部が欠損した石造物にワクワクするなんて、ほとんど病気ですね。
北方町の天神社で見た手水鉢。それそのものはごく普通の手水鉢。
しかし、手水鉢の手前にあった、四角くて丸い穴が開いた大きな石造物が気になって気になって。
それにしても、道端に石造物がゴロゴロある、今回のエリアは魅力的です。
次は、大野町・大町あたりで庚申塔や路傍の神様などの石造物探しをしてみたいと思います。