JR小岩駅をスタート地点に、新中川の東側にある神社を出来る限り巡りながら南下する歩き旅のコースです。更に小岩駅まで戻ってくるコースも用意してあるので、十分楽しめると思います。
小岩神社 江戸川区東小岩6丁目
JR総武線小岩駅からサンロード商店街を進み、東小岩6丁目交差点を左折すると「小岩神社」があります。
カラスに注意の張り紙があちらこちらにあります。気にせず参拝しましたが、参拝を終えて写真撮影を始めると、ちゃんとカラスに襲われました(涙)。
神社巡りをしていると、1か月に1回はカラスに攻撃されて怖い思いをします。
社務所では、おみくじやお守りが売られています。
小岩神社の、公式ホームページもあります。よろしければ参考にしてください。
小岩神社は、初詣で2回ほど行ったことがあります。
結構な賑わいでしたが、有名な神社とは違い、少ない待ち時間で参拝が出来た記憶があります。地元民のための神社って感じです。
天分5年(1536年)に、「五社神明社」「五社大明神」と呼ばれていた行徳の神社を遷座したそうです。現在の地に移ったのは1840年だそうです。
以来、中小岩村、下小岩村の鎮守として鎮座してきました。
小岩神社は、新編武蔵風土記稿では、中小岩村の項に登場します。そこには「中小岩村と下小岩村の鎮守となす」の記述もあります。
現在の社殿は昭和37年に建てられたものです。
中小岩村は、どんな村?
民戸55。一里塚があった(現在も一里塚交差点などの地名に残る)。
江戸時代に上小岩や下小岩村から分村した村。
大鷲稲荷神社 江戸川区東小岩5丁目
千葉街道沿いにあるのが、大鷲稲荷神社。神社の看板は「大鷲神社・稲荷神社」ですが、「大鷲稲荷神社」とか「稲荷大鷲神社」とか、みなさん好き勝手に呼んでいます。
江戸川区史では、「稲荷神社」として扱われています。
文久2年(1862年)創建で、農民の信仰を集めたと書かれています。
拝殿の左右にある松が見事です。
左の一本は天に向かって伸び、右は松は横に伸びています。
新編武蔵風土記稿の下小岩村の項に出てきている「鷲明神社」や「稲荷社」が該当する気もしますが定かではありません。
下小岩村は、どんな村?
屋敷が215ある大きな村でした。室町時代には既に集落が出来ていました。
東小岩天祖神社 江戸川区東小岩1丁目
「東小岩天祖神社」は笹ヶ崎村の鎮守でした。弘治元年(1555年)創建と言われてます。
境内は結構広く、虫取りの子供たちがウロウロ。
境外の道路では、男子中学生が大騒ぎしていました。
そんな光景も許せる雰囲気のある場所でした。
社殿の周りの木々によって、木陰が出来ていて過ごし易いです。
鳥居があってシンプルな社殿があるだけですが、そこにあり続けるだけで良いって感じの神社。境内が広いのでお祭りは盛り上がりそうです。
笹ヶ崎村って、どんな村?
江戸時代に出来た村です。新編武蔵風土記によれば、戸数46。村の東側に高札場があったので、人の往来は現在の篠崎街道に多かったようです。
江戸川区の資料によれば、篠竹や笹が多い砂洲だったことから、「笹ヶ崎」という村名になったと言われています。
篠崎浅間神社 江戸川区上篠崎1丁目
篠崎公園の南側に広がるのが、「篠崎浅間神社」です。私は江戸川沿いの参道から進んでいきましたが、こちらの道はお勧めしません。西側の参道からのアクセスが最適です。
篠崎浅間神社は、江戸川区最古の神社だそうです。こんな立派な神社が篠崎公園の近くにあることを知りませんでした。
深い林に囲まれた神社です。歴史の重みや神秘的なものを感じられる場所でした。
天慶元年(938年)の創建。一千百年前から鎮座しています。江戸川区内では唯一の郷社だそうです。
篠崎浅間神社には、公式ホームページがあります。
2の鳥居から階段を登っていくと、社殿があります。この広場の右手には神楽殿や末社。
左手にも多くの境内末社があります。おみくじやお守りなども売られています。
ホームページによれば、先ほど寄った東小岩天祖神社は、篠崎浅間神社の境外社ということらしい。
この地域には、上篠崎、中図師、本郷、西篠崎、下篠崎という5つの集落があり、有名な幟祭り(のぼりまつり)を支えていたという。(新編武蔵風土記稿では中図師を中津師と表示)
篠崎村は、どんな村だった?
室町時代の記録に篠崎の名前が出ている。古くからある集落だった。
篠崎は、砂洲上の土地で篠竹が茂っていた。また「篠崎の津」とも呼ばれ、水上交通の要となっていた場所である。江戸時代には、分村し上篠崎村と下篠崎村となっていた。
新編武蔵風土記稿では、「下篠崎村附持添新田」の項で、神明社として篠崎浅間神社の記載があります。
篠崎浅間神社があった場所が、下篠崎村の飛び地と思われる字「新田」だったため、このようになったと思うが、違和感が残る分村でした。
篠崎浅間神社の境内社
紹介しきれないほど多数の境内社があります。
辨天社
靖国宮
天祖神社と須賀神社
社殿の中は、神輿やら太鼓が置いてあって、倉庫状態。
白髭神社
こちらも社殿の中は倉庫状態。白髭神社兼神輿庫って感じ。
八幡神社
以下同文って感じです。倉庫としては一番乱雑にモノが仕舞われている感じ。
下浅間神社
拝殿の両サイドに似たような名前の境内社が鎮座しています。
左側が「下浅間神社」
天満宮
下浅間御嶽宮
似た名前の境内社の右側が「下浅間御嶽宮」。
こちらの境内社の前には、江戸川区教育委員会の「浅間神社の富士講」に関する看板が出ています。
香取神社
霧島神社
豊受神社(柳島稲荷神社)
神額では「豊受神社」。説明書きでは「柳島稲荷神社」
柳島という地名の土地から遷座したお稲荷さんと説明書きがあります。
いせ稲荷大神(いせや稲荷神社)
説明書きは「いせや稲荷神社」。いせやという地名の場所からこの地に移された稲荷神社とありますが、幟旗は「いせや」ではなく「いせ」。どういうことでしょう?
篠崎浅間神社の境内社 小祠
狛狐が飾ってある祠が2つ。お稲荷さん系の屋敷神が移設されたのでしょう。
詳細が不明な祠がひとつ、すこし離れたところにあります。
注目したのは、一番右端。石の台座の上に馬があしらわれています。何が祀られているのでしょうか。
草薙神社 江戸川区篠崎町1丁目
鹿骨街道から路地に入ると「草薙神社」があります。とても分かり辛いですが、本郷町会会館の看板を目印にしてください。
「草薙神社(くさなぎじんじゃ)」は、非常にコンパクトな神社でした。
木が生い茂っていて社殿が分かり辛いですが、祠のような小さなサイズの社殿です。
社殿の右側には、本郷町町会会館があります。
この場所は、現在は「篠崎町1丁目」ですが、江戸時代は篠崎村本郷といっていました。
「草薙神社」の由来
篠崎むかし昔 著者:茨木 清美
草薙一族が司守をしている神社です。昭和11年に創建されました。
草薙一族の本家で災難が続き当主も亡くなった。朽ち果てた本家を取り壊した際に、床下から宝剣が出てきた。一族で順番に保管していたが、その一族にも災難が起きた。困った一族が、古事記にある草薙の剣で草を薙ぎ払い難を逃れたという伝説や、それにまつわる神社があると聞き、宝剣を納めた神社を建てたという口伝が残っている。
篠崎村本郷とは、どんな場所?
本郷は「もとつごう」と読みます。郡司の役所があった場所という意味があります。
篠崎の中心地でした。篠崎村が分村した際は、下篠崎村本郷となった。
南篠崎天祖神社 江戸川区南篠崎町2丁目
東井堀親水緑道の横にあるのが、「南篠崎天祖神社」です。
ここの神社も、虫取りの子供たちで賑わっていました。
鳥居の左側に、史跡という表示で由緒書きがあります。文字が薄くなっていて読みにくいですが、こういったものがあると助かります。
創建は不明ですが、文化14年(1817年)に再建したとあります。当時は「鎮守神明大神宮」といっていたが、明治6年に天祖神社(村社)に改正。
新編武蔵風土記稿によれば、上鎌田村には神明社と山王社があったが、どちらも村の鎮守という表現はされていない。どういうことなのだろうか?
社殿は、昭和40年に鉄筋コンクリートの神明造りで建てられたものです。
境内には、水神宮や3つの末社があった。
神輿庫は、ガラス張りの窓から中を見ることができる。
社殿の左側に「上鎌田の富士塚」があります。江戸川区教育委員会の看板が出ています。
上鎌田村は、どんな村?
民戸が90ほど。用水は小合溜井から引く(東井堀)
上鎌田村と下鎌田村に分村したのは、正保の頃らしい。
前川神社 江戸川区江戸川1丁目
東井堀親水緑道を出た柴又街道のところにあるのが「前川神社」です。
ここも由緒書きがないのかと思いましたが、掲示板のところに「猫の足あと」さんのホームページのコピーが張ってありました。(流石に、手を抜き過ぎだろうと思うのですが)
前野村の鎮守でした。江戸川区の資料(江戸川区史 第三巻)によれば、以前は、「大六天社」といってましたが、明治9年に改称したそうです。
前野村の鎮守で、前川神社ってややこしい名前です。
見ての通り、木が育っていないことや、コンクリートの感じから最近移転したことが分かります。2009年より前は、柴又街道のところにありました。住所も江戸川区江戸川1-6-1でしたが、現在地は江戸川区江戸川1-6-2です。
2010頃から2018年までのどこかで、柴又街道が延長され旧江戸川まで繋がりました。この道路工事に伴って移転したと思われます。
前野村は、どんな村?
江戸時代に出来た村ですが、江戸川区史には、その由来などの記述がありません。
新編武蔵風土記稿によれば、屋敷36。東西2町(約220m)、南北3町(約330m)の小さな村だったようです。用水は江戸川から引き込んでいたとあります。
當代稲荷神社 江戸川区江戸川1丁目
江戸川区立江戸川小学校の裏手の道から更に奥に入った分かり難い場所に「當代稲荷神社」はあります。
小さな神社でしたが、ピンクの社殿が印象的。
こちらの神社は、新小岩厄除香取神社が管理をしているようです。
明治時代の地図を見ると、この場所は、田んぼの中。神社があったとは思えません。近代になってこの場所に建てられたと推測。この場所から近いのは、先ほどの「前川」ですが、西に行くと「當代島村」があります。(同名の村が対岸の浦安にもある)
この「當代島村」に関係する稲荷神社ではないでしょうか。
新編武蔵風土記稿には、當代島村のところに稲荷社があり鎮守だったとある。
実際、今昔マップ on the webを使い、1944~1954年の地図を確認すると當代町の範囲が明確になるとともに、現在地に神社マークが現れる。
當代島村は、どんな村?
江戸川の砂洲や島などが集落になったと考えられている。
屋敷が54の村。
豊田神社 江戸川区東瑞江1丁目
「瑞江駅西通り」沿いにあるのが「豊田神社」。
「豊田神社」は、下鎌田村の鎮守でした。写真中央に移る欅の木(御神木)は樹齢200年と言われる古木です。迫力満点の欅の木は一見の価値あり。
境内には富士塚もあります。こちらの富士塚は、「下鎌田の富士塚」といいます。
境内が広く、とても気持ちが良い神社でした。
元々は神明社と言い、別の場所にあった。
明治の初期に別当であった長寿院が廃寺になったため、長寿院があった場所に「豊田神社」を作り改名した。と境内の看板に書かれていた。
下鎌田村は、どんな村?
鎌田の前は、蒲田と書かれていた。低湿地や海岸などに多い地名。蒲の生い茂った原野だったようだが、明治の地図では田んぼに囲まれた村であった。
新編武蔵風土記稿によれば、民戸154の村だった。
春江天祖神社 江戸川区春江2丁目
弥生公園に隣接する場所にあるのが、「春江天祖神社」。
神社の境内と公園では、野球少年たちが昼飯のおにぎりを頬張っていました。
神聖な場所というよりは、地域のコミュニケーションに必要な場所って感じです。
折角なので、私も隣接する公園で休憩。木陰があって気持ち良い公園です。
社殿と鳥居は境内の端っこ。お祭りの時に邪魔にならない位置です。
この場所に移ったのは、比較的新しいのではないかな。昭和51年発行の江戸川区の資料では、所在地が、ここじゃなくて、GOLF5がある辺りの住所になっていますが、そこじゃないと思います。過去の地図で見ると現在地の道路の反対側(北側)にありました。移転したのは1970年代と思われます。
歴史は古く、元和2年(1616年)の創建です。当時は三十番神社といった。
一之江新田の鎮守でした。現在の社殿は大正7年のものらしいです。
一之江新田って、どんな場所?
江戸時代に登場する地名です。一之江新田は、名前の通り田んぼが広がる場所でした。
後に椿、椿町といった名で呼ばれた町でした。
民戸53。高札場は村の北にあったというので、谷河内村か新堀村と繋がる道の往来が多かったようです。
まとめ
意表をついて、歩く大変さよりも、歩いた後の調査や情報整理が大変な歩き旅コースになりました。
この先も続けて神社巡りをされる時は、下記の、神社巡るをしながら、JR小岩駅に戻るコースがおすすめです。