合計6回の訪問で、境内社まで含めた国分日枝神社のデータを収録しました。
市川市国分5丁目にある日枝神社で分からないことは、ここに書かれているかもしれません。
何度も訪問していると、氏子総代の方とお話しをする機会があったりして、意外なことが判明したりします。
現地での確認や氏子総代の方の話し、市川歴史博物館発行の市川市石造文化財調査報告書「市川市の石造物」などから、本コンテンツを作成しました。
国分日枝神社の所在地、アクセス
住所:〒272-0834 千葉県市川市国分5丁目13−5
アクセス:JR総武線市川駅から国分高校行きの京成バス。国分バス停下車、徒歩3分。
国分日枝神社の基礎データ
宗教法人名:日枝神社
当サイトでは、他の日枝神社と区別するため、地名の国分を付加した「国分日枝神社」と表記させていただいています。
宗教法人代表者:白幡天神社(市川市菅野)の宮司さん
白幡天神社(市川市菅野)の兼務社です。神事は、白幡天神社の神主さんが執り行います。
日枝神社の日々の維持・管理は、氏子の方々によって行われてます。
氏子エリア:国分地区(北台、平川、根古屋、六反田)
北台、平川などの地域名は、昔の字名。現在は自治会の名称に残っています。
この字名は、由来を調べると、それなりに面白そうです。(台地、川、屋敷、田んぼ)
須和田から見て北の台地になるから北台と推測。
平川は良く分かりません。平川という河川があったのかもしれません。
根古屋は山城の城主の館という意味ですが、城主の館があったのでしょうか。
六反田は水田の大きさからきた字名でしょう。
国分日枝神社の紹介
国分日枝神社の紹介をした後、複数ある境内社の紹介をしていきます。
国分日枝神社の入り口右側にある標石
石板には、下記のように記されています。
「指定村社」「大正四歳八月六日」「日枝神社」
裏面には、寄進された方や、指定村社の発起人や氏子総代などが記されています。
こちらの国分日枝神社は、大正4年(1915年)に村社に指定されました。
国分日枝神社の鳥居
以前の鳥居は、元禄2年(1689年)に作られた市川市内で最も古い鳥居でしたが、2011年3月11日の東日本大震災により倒壊し、建替えられました。
古い鳥居の一部と神額が残っていて、手水舎の横あたりに置いてあります。
現在の鳥居
平成23年8月末日の奉納年が入った鳥居になりました。
昔の鳥居と神額
元禄2年の鳥居の柱2本と神額。神額の足元に興味深いものを見つけます。
耳を塞いだ姿の猿が描かれた石造物です。
これも鳥居の一部だったのでしょうか。
御祭神の大山昨命は山の神様。
赤坂山王の日枝神社では、同じ山の守り神である猿を神猿として置いています。
国分日枝神社でも、神猿が鳥居の上から神社を守っていたのかもしれません。
国分日枝神社の御由緒
境内に国分日枝神社の由来を書いた紙が貼ってあります。
折角ですので、書かれていた内容を原文のまま紹介します。(年中祭事は省略)
御由緒
日枝神社境内に掲示の由緒書きより
御祭神 大山昨命
当神社の創建については詳らかではないが、今からおよそ300年前即ち元禄2年(1689年)鳥居建立・安永2年(1772年)・寛政11年(1799年)・明治42年(1909年)と社殿改築の記録を残し、大正4年には指定村社に列せられた古社である。尚、現在の拝殿は、昭和56年に造営されたものである。
御祭神は土木の知識に長け、山城国丹波の開拓をてがけ当地を流れる川の治水をも成功に導いたと伝えられる命である。
また、2月11日の当社に伝わる神事では、田舟を担ぎ氏子地域を廻り、諸々の病、災いを川に流し放つとする奇祭が行われていた。昭和の初期からは、拝殿に田舟を設え無病息災を祈願する祭りの形をとっている。
御神徳 家運隆盛、殖産興業、心願成就
飾り獅子や「船みこし」の説明
飾り獅子の話しや、「船みこし」の説明書きが出ています。
飾り獅子のうち、男獅子は明治の奉納、女獅子は大正末期の奉納。奉納したのは氏子の中の富士講と説明があります。大正時代に担ぎ出されたこともあったそうですが、そのたびに壊れて修理をしていたので、担ぎ出されなくなったとあります。
余談ですが、国分日枝神社から5分ほどの場所(国分寺から坂を下った辺り)に仙元宮があります。
そこには天保4年(1833年)の石祠があり、江戸時代から富士講が盛んだったことが分かります。
船みこしの祭事ですが、こちらは境内社になっている大杉神社の祭事です。
2021年の神事は、残念ながら新型コロナの影響で中止になりました。
氏子総代の御配慮で、特別に倉庫に置いてあった田舟を見せて頂きました。
大きさは、団地サイズの畳くらい。平底で、田んぼの中を引いて使う船です。かなり珍しい船です。
古い釘などの金物
神紋なのでしょうか「左三つ巴紋」の金物が確認できます。
同じ紋は、さい銭箱でも確認できます。
国分日枝神社の手水鉢
手水鉢は、境内に使用中のもの1つ。
本殿の裏に廃棄されたのか仮置きしているのかという感じで置かれているものが一つ。
現役で使われている手水鉢は、本体と台の奉納年が異なり、本体が寛政9年(1797年)、台が昭和9年(1934年)です。
本殿裏にある手水鉢は、小型のもので大正元年だそうです。
残念ながら、現在は裏側を見ることが出来ないため、手元の資料に書かれたことを信じるしかありません。
表側にある紋は「抱き稲紋」。本来は、境内社の稲荷神社とセットになる手水鉢でしょうか。
国分日枝神社の御神木
国分日枝神社は、いかにも村の鎮守様という感じで、静かに鎮座しています。
拝殿の前で、目を引くのが、イチョウの木。
境内には、複数のイチョウの木がありますが、一際、存在感があるのが御神木と思われる大イチョウ。
見た感じ(幹の太さ)で判断すると、樹齢は300年~350年くらいでしょうか。
写真は6月頃の撮影ですが、葉が黄色く染まる見頃は11月末あたり。風の強い日は、まるで大粒の雹が降ってきているかのように、銀杏の実が降り注ぎます。
国分日枝神社の燈籠
燈籠は、4組あります。
鳥居同様、東日本大震災で倒壊、破損したため部分的に新しい石に置き換わっています。
折角なので順番に見ていきましょう。
国分日枝神社 参道入口の燈籠
右側の燈籠に「明治七年歳在甲戌」、左側の燈籠に「冬十一月吉日建之」とあります。
手元の資料を確認すると、基礎部分の石には、文久元年の年号も刻まれているそうです。
国分日枝神社 鳥居の先にある燈籠
年号らしき「明」の字が判読できるので、手元の資料から明治7年奉納の燈籠と判断。
国分日枝神社 拝殿の前にある燈籠
拝殿前の燈籠は、台座に刻まれた奉納年から、明治42年のものと判明。
平成22年3月に修理を行ったことが分かる石板が追加されています。
国分日枝神社 本殿の前にある燈籠
近寄れないので、年号が確認できません。
手元の資料にも掲載がないため、まったく分かりません。
国分日枝神社の狛犬
狛犬は、拝殿の前に1組。
明治7年の奉納の狛犬です。奉納年は右側の狛犬の台座に刻まれていますが、肉眼で確認できるのは干支の部分だけ。部分的に文字が読み取り辛くなってきています。
右側の狛犬が、子取り。子供に乳をあげている構図が珍しいと思います。
左側の狛犬が、玉取り。玉のあたりの石が崩れ始めているのが心配です。
国分日枝神社の拝殿と猫
拝殿は昭和56年に造営されました。
拝殿には、地域猫なのか慣れた感じで猫二匹が鎮座してました。
某神社のような猫屋敷状態にならなければ良いのですが...
拝殿の改修記念碑によると
昭和53年に日枝神社が所有する土地1000㎡を処分し、工事費の一部に充てたとあります。
改修は、本殿上屋、拝殿、御水屋、社務所だったそうです。
国分日枝神社の本殿
シンプルですが立派な本殿がありました。
本殿と拝殿は石橋で繋がっています。
彫刻は、拝殿側から見た時に見える範囲に施されています。
隣のお寺さんと行き来できる階段は江戸時代の名残
境内から隣のお寺(護国山龍珠院)の境内に繋がる階段が2か所あります。
現代の世の中で、お寺が国分日枝神社を所有しているという話ではないですが、気になる階段です。
ということで、氏子総代に聞いてみました。
筆者:江戸時代は、隣のお寺さんが別当だったのですか
氏子総代:そう、隣のお寺が管理していたので階段を作った。
想像通りだったのは、ここまで。
氏子総代:「国分寺」が別当だった。
筆者:えっ! 「龍珠院」じゃないですか。
氏子総代:江戸時代は、隣に「国分寺」がいた。
この続きは、本コンテンツの最後に「龍珠院に寄ってみた」の項として、纏めました。
国分日枝神社の参道脇にある境内社
まずは、参道脇の境内社を入り口に近い方から見ていきます。
木製の祠が3つ、石碑が1つ。参道の右側にあります。
参道の左側には、自然石で出来た境内社が1つあります。
まずは、参道右側から。
稲荷神社
入り口に近いところにある境内社には、木札が出ていません。
当サイトでも、ずーと不明社として扱っていましたが、境内を清掃していた方(氏子総代)にお聞きした結果、「稲荷神社」と判明。
手元の資料によれば、明治11年奉納の「稲荷大神」と書かれた石祠があるそうです。
木製祠の中に、この石祠が納められていると思われます。
古峰神社
ふたつ目の祠は、古峰神社と書かれた木札が出ています。
市川歴史博物館の石造物調査資料には、掲載がないので、木製の祠の中には石祠はないのでしょう。
大杉神社
木札が出ているので、すぐに大杉神社と判明します。
村内に悪い病気が流行らぬよう、茨城県稲敷市の大杉神社を勧請しました。
市川市の調査資料では、石祠に寛政8年(1796年)と刻まれているそうです。
大杉神社の左横にある、謎の石板
氏子総代に確認したところ、江戸時代からある何かの記念碑だそうです。
境内社ではありません。
何の記念碑か分からないようで、書かれた文字を読む必要があります。
石板の中央上部には、家紋らしきものがあります。模様は、巴紋のような違うようなとハッキリ確認できません。
石板の中央には、比較的大きな文字が3~4文字程度書かれていますが、全く読めません。
経年劣化で読み取り辛くなっている上に、かなりの達筆。
盤面全体を見ると、他にも文字が入っています。自分では一文字も判読できず、解析を断念。
市川市歴史博物館発行の「市川市の石造物」という資料にも、この石造物は記載がないため、完全にお手上げ。博学な方の登場を待つことにします。
私の推測は、参拝信仰の関係の記念碑。どうなんでしょうか。
次は、参道左側。自然石は道祖神
参道入り口左側、鳥居をくぐる前に道祖神があります。
以前は、自然石で出来た道祖神と石祠の道祖神があったようですが、現在は写真の自然石タイプだけになりました。
こちらの自然石を使ったものは、昭和55年奉納。
本殿裏に7つの石祠があります
本殿裏の狭い場所で、7つの石祠と古い手水鉢を発見。
数が多いので右から順に見ていきます。
国分日枝神社の境内社 天満宮
いきなり、市川歴史博物館の「市川市の石造物」に掲載の無い石祠です。
石祠の右側面に「寛政二戌歳」、左側面に「正月廿五日」
寛政2年(1790年)奉納の「天満宮」でした。
国分日枝神社の境内社 疱瘡神
正面の文字は剥離し不明。
石祠の右側面に「寛政九丁巳●」、左側面に「正月吉日」
市川歴史博物館の資料「市川市の石造物」と照合すると「疱瘡神」。
昭和62年の頃は、「●瘡神」(赤字は推定)という程度には読めていたようですが現在は無理。
国分日枝神社の境内社 不明社
正面の文字は判読不能です。
右側面に奉納年があります。「天保九戌●」。
市川歴史博物館の資料「市川市の石造物」と照合すると「●●夜」と刻まれた不明社に一致。
月待ち信仰の関係と思われるが、●●の部分が読めないので特定に至らず。
私の推測は、二十三夜塔。
境内社を3つ纏めて(右から香取大明神、不明、不明)
右の石祠は、正面の文字と右横の年号が読み取れます。
中央の石祠は、正面の文字は辛うじて「●●神」。横の文字は読み取れません。
左の石祠は、正面も横も文字は読み取れません。
右の石祠の文字は「香取大明神」(取は旧字?)「明和三丙戌十二月吉日」
明和3年(1766年)と古いものでした。
中央の祠は、市川歴史博物館の資料「市川市の石造物」と照合すると「●●神」となっている不明社と一致。
国分日枝神社の境内社 不明社
正面の文字は確認できません。
側面にある文字が部分的に確認できます。
右側面「秋吉」、左側面「法印宥●」
市川歴史博物館の資料「市川市の石造物」と照合すると「大願成● 寛政十二● 初秋吉祥」と刻まれた不明社に一致。
市川歴史博物館の資料「市川市の石造物」にあって、実際はない石造物
資料では、不動明王が境内にあることになっていますが、見当たりません。
氏子総代の方にも確認しましたが、そのようなものは無いとのこと。
実は隣の龍珠院の御本尊は、不動明王像なのです。
なにやら、感じるものがあります。
特に気になるのは、氏子総代が言われていた、隣は国分寺だったという話し。
折角なので、隣の龍珠院にも行ってみましょう。
護国山 龍珠院に寄ってみた
国分日枝神社の階段を下りて、龍珠院の境内に入ります。
境内を見回しましたが、由緒書きなどの掲示物はありません。
仕方がないので、詳細はネットで調査することとし、先に本堂で参拝後、境内を散策します。
護国山 龍珠院の参道脇にあった「十九夜塔」
如意輪観音像の右横に「十九夜念佛講中」と入っています。
左横には奉納年として「元禄十丁丑天八月●九日」(●部分は欠落により判読不能)
元禄10年(1697年)の十九夜塔でした。
護国山 龍珠院のことをネットで調べてみた
市川市のホームページによれば、
真言宗豊山派のお寺で、享保3年(1718年)の創建だそうです。
他サイトから、龍珠院は国分寺の末寺、本尊は不動明王立像という情報を得ました。
しかし、ネットで得られた情報はここまで。情報が非常に乏しいお寺さんです。
気が付いて頂けたでしょうか、創建年よりも、十九夜塔の方が古いことに。
更に、震災で倒壊してしまったが、国分日枝神社の鳥居は、元禄2年(1689年)の奉納です。
つまり、神社の方が古いのだ。
国分日枝神社の隣に国分寺があったのか
地図を広げて思いを巡らせたり、国分寺の情報を集めたりしてみます。
ここで気が付いたことから大胆な仮説を立てました。
仮説)
国分日枝神社や龍珠院がある場所は、江戸時代以前は国分寺の寺領だったのではないか。
国分日枝神社の創建時は、国分寺が別当だった。
江戸時代初期に国分寺で発生した火災のため、龍珠院がある場所に、一時的に移転していた。
こんな仮説を立てると、創建年よりも古い石造物があることや、氏子総代がいわれていた日枝神社の別当は国分寺という話しが腹に落ちてくるのだが...エビデンスがゼロ。
最後に、龍珠院から見た国分日枝神社を
写真で分かるだろうか。拝殿と本殿の間位の位置にお寺の方から神社に上がる階段があります。
もうひとつの階段の方が使い勝手が良く、こちらの階段は誰も使わなそうです。
なぜ、階段を設けたのでしょうか。
私は、神事を執り行う方が通る専用の階段のように感じました。
この階段には、奉納者名が入っています。何故か「市場」の文字。
国分日枝神社の狛犬の奉納者にも、東京青物問屋や神田市場などの文字が見られます。