西船橋駅を出発して市川市の神社を巡ります

今回は、市川市の東の端から歩き始めて西の端を目ざします。
出発はJR総武線や東京メトロ東西線が通る西船橋駅。駅は船橋市でも、ここは市境。すぐに市川市になります。

目ざす西の端は、江戸川に掛かる市川橋。橋を渡れば江戸川区。

折角なので、神社巡りなどしながら歩くことにしました。

日枝神社

日枝神社の所在地:千葉県市川市二俣2丁目1−11

西船橋駅からそれほど遠くない場所に日枝神社は鎮座していました。
こんなところが市川市なのかと妙なところに感心。

二俣の日枝神社は、創建年や由緒などが不明の神社です。
境内はもちろん、ネット上にも何の情報も出ていません。

日枝神社
日枝神社

まずは、今昔マップon the Webで遷座の状況を確認してみます。
明治の地図では、「日枝祠」という名称で表示がされています。現在地よりも、やや北寄りに鎮座しているように見えます。現在地に遷座したように見えるのは昭和40年代~50年代。

日枝神社 社殿
日枝神社 社殿

境内で年代を確認できるものを探してみますが、古い年代のモノが見つかりません。

年中行事表が出ています。注目したのは「竜神祭」
この神社に「竜神」が合祀されているのだろうか。この場所からほど近い場所に「龍神宮」もあります。

日枝神社 年中行事
日枝神社 年中行事

社殿の裏に回ると、本殿が良く見えます。木彫りが施された手が込んだもの。
本殿の前には狛犬。ネットの情報によれば、狛犬の奉納年は天保9年(1838年)。
やっと古いものに出会えました。

日枝神社 本殿
日枝神社 本殿

境内にある石碑 仙元宮

仙元宮と書かれた碑がある。裏面には明治二己巳歳(明治2年)と奉納年が刻まれている。
仙元(せんげん)=浅間(せんげん)ということで、富士登山講の碑。
施主として1名だけ名前が入れられています。

境内にある石碑 仙元宮
境内にある石碑 仙元宮

稲荷神社

稲荷神社の所在地:千葉県船橋市葛飾町2丁目446 (大部分は、市川市二俣に鎮座)

道路を挟んだ反対側に、日枝神社の倉庫と神社があることに気が付きます。
googleで稲荷神社の住所を調べると、船橋市です。
車がほとんど通らない細い道ですが、道路を渡れば、ここは船橋市。
市川市にある日枝神社の倉庫は船橋市かぁ...

ここで、あることに気が付きます。

稲荷神社
稲荷神社

ネット上では、日枝神社の境内に道路が通って分断されたと書いているところがありますが、違います。
稲荷神社と日枝神社の間を通る道は、二俣の地名の由来にもなった昔からある道です。

この分断されたように見えるのは、船橋市と市川市の市境の問題。
日枝祠と呼ばれていた時代の場所は、現在は船橋市本郷町になっています。二俣の守り神が本郷町って訳にはいかないので日枝神社は遷座をせざるを得なかったようです。
更に稲荷神社の場所を詳細に見ると、社殿の2/3は市川市二俣側、1/3が船橋市葛飾町側。お参りする時、立っている場所は二俣なので、OKって感じでしょうか。

で、肝心の稲荷神社の由緒は不明。日枝神社の境外末社と思いますが...

二俣の庚申塔と馬頭観世音

青面金剛の所在地:千葉県市川市二俣2丁目7−2

日枝神社、稲荷神社の前の道を南下し、船橋行徳線という道路にぶつかったところで、4つの石造物に出会えました。近年、この場所に集められた感じですが、貴重なものなので、じっくり見ていきます。

二俣2丁目 路傍の庚申塔
二俣2丁目 路傍の庚申塔

その前に、二俣の地名の由来から、
二俣は、行徳と成田を結ぶ街道(現在の船橋行徳線)が通る集落です。行徳からきた道は、現在の海神あたりで千葉街道(当時は、成田道または佐倉道と呼ばれた)に合流していました。
街道は、集落の中で、成田に向かう道と、西船橋の葛飾神社方面に向かう道の二又に別れていました。

石造物を左端から詳細に見ていきます。

一番左のでかい石造物は青面金剛(庚申塔)

一番左のでかいやつは、文政元年(1818年)奉納の青面金剛(庚申塔)。側面が道標になっています。「左 舟はしミち」
二又のところにあったのでしょうか。

二俣の庚申塔(青面金剛)
二俣の庚申塔(青面金剛)

道標(右側面)以外の刻まれている文字を記録しておきます。
正面は、「青面金剛」「二俣講中」(赤字は推定)
左側面は、「文政元寅十月吉日」

左から2番目も庚申塔です

三猿があるので、庚申塔とすぐにわかりますが、文字が刻まれた庚申塔です。
文字は浅く刻まれているので、目視での判読は、ほぼ不可能。手元の資料に頼ります。

二俣の路傍にある庚申塔
二俣の路傍にある庚申塔

刻まれている文字は、資料によると
奉●庚申●●祈願成就所」「下総國栗原之内」「二又村」「寛文六丙午天九月十日」「行十三人敬白」(赤字は資料から転記)

寛文6年(1666年)の庚申塔でした。

右から2番目は馬頭観音

側面に次のように書かれています「行徳鹽問屋 松丸善吉、二俣製塩家 石井吉蔵」
二俣で塩が作られ、行徳の塩問屋に送られていたことが分かります。この場所も海が近い、低地だったことも判ります。こちらは、明治38年の馬頭観世音。

二俣の馬頭観世音
二俣の馬頭観世音

一番右端の石造物は、表面が剥離

石造物正面の表面が剥離していて、何が祀られているのか良く分かりません。
唯一、右側面にある奉納者名が読み取れる状態です。

表面が剥離しているが馬頭観世音
表面が剥離しているが馬頭観世音

読み取れる奉納者名を頼りに、手元の資料と照合をしていくと、馬頭観世音であることが判明

市川歴史博物館が行った調査時点(平成9年)では、多少ましな状態だったようです。
資料から、刻まれていた文字を転記しておきます。
正面は「●●観世音」「●●四年」
右側面に「● 小森●●立之」(私の目には、ではなくのように見えますが...)

龍神宮

龍神宮の所在地:千葉県市川市二俣2丁目8

googleマップを頼りやってきましたが、鍵が掛かっていて中に入れません。
龍神宮は、池の中に造られた神社です。大きな池の中に、鳥居と祠があり、溶岩石と樹木で独特の演出がされた場所には橋で渡るようになっています。

龍神宮
龍神宮

鉄の扉のところには、さい銭箱があります。
普段は公道から参拝するようです。

ここで思い出されるのは、日枝神社の竜神祭。日枝神社の境外摂社なのだろうか。

船橋行徳線が通っている集落では、津波や洪水の被害を受けてきた歴史と、塩田に雨が降ると数日間塩を採ることが出来なくなるから、龍神や水神を祀ることが多いのです。

撮影した写真を自宅で拡大表示してみたところ、一番左に木製の祠、その右側に2つ石祠が写っていました。
手元の資料「市川市の石造物(市川市歴史博物館)」で、調べます。(以下、「市川市資料」と表現)
市川市資料にでていたのは2つの石祠。1つ目は「龍神宮」と刻まれ元文元年(1736年)奉納のもの。2つ目は、文字の判読不能。側面に奉納者らしき氏名が15人分刻まれたもの。

原木日枝神社

原木日枝神社の所在地:千葉県市川市原木1丁目22−23

船橋行徳道に戻り、西に向かいます。途中、原木ICなど交通量の多い場所を抜けていくことになります。船橋行徳道は道が狭く交通量もあります。危険なので注意して進んでください。
原木日枝神社に向かう途中には、大きなお寺さんや昔ながらの建物など目を楽しませてくれるものがあります。

原木日枝神社
原木日枝神社

参道の入り口に由緒書きが出ています。
創建は1773年(安永2年)。
御祭神は、拝殿に向かって右から天満大自在天神、八大龍王神、山王大権現、第六天皇神、稲荷大明神。
主祭神は、山王大権現。

原木日枝神社 社殿
原木日枝神社 社殿

御祭神のひとつに龍神が含まれてました。

原木日枝神社の手水鉢

手前にある手水鉢は小さいものだが、古そうな感じ。
奉納年を探してみたが、見つけられず。
市川市の資料には、天明8年(1788年)と記載があった。

原木日枝神社の手水鉢
原木日枝神社の手水鉢

稲荷神社(多分、屋敷神)

稲荷神社(多分、屋敷神)の所在地:千葉県市川市高谷2丁目19

googleマップを頼りに辿り着いた稲荷神社です。
外環自動車道のすぐ横といった場所に鎮座していました。
一見すると隣接する民家の屋敷神。一応、ブロック塀の外側にありますが、稲荷神社と公道の間の空き地は、隣接している民家が使っている様子です。

稲荷神社(多分、屋敷神)
稲荷神社(多分、屋敷神)

このお稲荷さんにも狛狐がいますが、狐は田の神の使いと言われたことから、農家では屋敷神として稲荷神社を祀る風習がありました。
ここへやってくる途中でも多くの屋敷神を見掛けました。どうやら、高谷は農業が盛んな集落だったようです。

高谷大鷲神社

高谷大鷲神社の所在地:千葉県市川市高谷2丁目12−10

大鷲神社の鳥居をくぐって真っすぐ行けば高谷大鷲神社、斜め左に行く参道を進めば羽黒神社です。
宗教法人としては別々の登録がされているので、当サイトでも別々に扱います。
尚、googleマップでは羽黒神社は表示されません。

高谷大鷲神社
高谷大鷲神社

創建年や由緒など不明な神社です。

高谷(こうや)という地名は、元々、荒野(こうや)だった場所を開墾してできたことに由来しています。
開墾の歴史を調べれば、ある程度、創建された年代の推測ができそうです。

高谷大鷲神社 社殿
高谷大鷲神社 社殿

高谷大鷲神社 手水鉢

正面のところに奉納年らしきものが書いてあるが、はっきり読めない。写真を撮って帰宅。
帰宅後写真をじっくり眺めると「寶曆十三癸未」(宝暦13年・1763年)と読めた。
かなりの歴史ある神社と言うことが分かります。

高谷大鷲神社 手水鉢
高谷大鷲神社 手水鉢

高谷大鷲神社 御神木

社殿前にある御神木は、幹の中が朽ち果てて、ぽっかり空洞ができています。
かなりの古木のようですが、その生命力に驚かされます。
樹木に詳しくないのですが、ケヤキらしい。

高谷大鷲神社 御神木
高谷大鷲神社 御神木

高谷大鷲神社の境内社 水神宮

溶岩石をコンクリートで固めた上に、水神宮の石碑が建っています。
横に植えられた木の枝が、水神宮の石碑にめり込んで一体化し始めています。こうなることは予想できなかったのだろうか。
市川市の資料によれば、昭和58年の奉納である。

高谷大鷲神社の境内社 水神宮
高谷大鷲神社の境内社 水神宮

高谷大鷲神社の境内社 稲荷大明神

本殿の裏手に2つ石造りの小祠があります。
ぱっと見た時は同じ文面が書かれていると思いましたが、微妙に異なることが分かりました。

社殿、右側にあったものには、「奉造●稲荷大明神」(●は立のように見えるが自信なし)
奉納年は「元文3年」の年号が確認できる。
市川市の資料によると、文字は「奉造立稲荷大明神一字」だそうです。「一字」って何だ?

高谷大鷲神社の境内社 稲荷大明神
高谷大鷲神社の境内社 稲荷大明神

高谷大鷲神社の境内社 不明社(推定:姫宮明神)

社殿、左側にあったものには、「奉造三●宮大明神」(●は「神」のように見えるが自信なし)
奉納年は、右側の祠同様、元文3年(1738年)。
市川市の資料によると刻まれた文字は「奉造立姫宮大明神一字」。市川市の調査でも「姫」の部分が読めないようで推定となっている。

高谷大鷲神社の境内社 不明社
高谷大鷲神社の境内社 不明社

羽黒神社

羽黒神社の所在地:千葉県市川市高谷2丁目12−11

小ぶりな社殿と狛犬だけのシンプルな神社です。

社殿の前にある狛犬は、弘化3年の年号や石工の名前などが台座にあるそうですが、文字が消えかかっているため読み取れません。

羽黒神社
羽黒神社

創建年や由緒など全く分かりません。
狛犬が江戸時代のものということは見た目で分かるので、歴史は感じられるのですが、残念。

高石神社

高石神社の所在地:千葉県船橋市本中山7丁目17−2

いつの間にか船橋市に入っていました。

高石神社
高石神社

境内に由来書きが無いので、「またか」という気持ちになりましたが、実はこの神社はホームページがありました。

高石神社 社殿
高石神社 社殿

当地に、鎮守高石神社が建立された年代は不詳だが、古書や古老の話などによると、その昔、当地周辺の広大な土地は、海辺の荒野で、下総の国葛飾郡栗原郷の一部といわれていた。
江戸時代初期の頃、高石神(市川市)の第一の旧家であった石井兵庫が、この地の開墾に手を初め、その後次第に農家(住民)が増加し、集落となり、地名を「兵庫新田」と称した。
(中略)
さて、集落が出来、村民の誰からともなく、当地に鎮守祭祀の話がでて、開墾者である石井兵庫の氏神「高石神社」の分社として、現在地に社殿を建立、神功皇后を祭神として祀り、村民の心の拠り所となった。
また、祭神が女性なので安産の神としても知られ、子女出産の後、必ず参詣して子の成長を祈願したものであり、収穫の秋には村民こぞって賑やかに祭礼が行われてきた。

船橋市本中山6・7丁目町会のホームページより引用

意外なところで、市川市に縁のある神社でした。市境を歩くのも面白いと感じた瞬間です。

高石神社の手水鉢

ただ置いてあるという状態。奉納年を確認してみたが、「願主 松●」が辛うじて分かる程度。
『願主は「石井」さんじゃないんだ』って呟くのが精いっぱい。

高石神社の手水鉢
高石神社の手水鉢

高石神社の境内にあった庚申塔

高石神社の境内にあった庚申塔
高石神社の境内にあった庚申塔

おりひめ神社

おりひめ神社の所在地:千葉県市川市鬼高1丁目1 ニッケコルトンプラザ

商業施設のニッケコルトンプラザの敷地内に鎮座する神社です。
前回訪問したのは、初夏の頃でしたが、カラスによる被害が出たということで閉鎖されていました。

近くを通る機会に恵まれたので、立ち寄っていきます。

おりひめ神社
おりひめ神社

由緒書きが入り口のところに出ています。キラキラネームの神社ですが、理由が明かされます。

昭和の初めに、伊勢の神宮より御分霊を奉遷したのが始まり。
共立モスリン株式会社中山工場内の森を神域とし、昭和16年に合併により日本毛織株式会社、昭和63年にニッケコルトンプラザへと引き継がれてきました。
現在の社殿は昭和11年の造営。
御祭神は、「天照大神」、御神徳は、商売繁盛、厄除開運、縁結び、学業成就など。

おりひめ神社 社殿
おりひめ神社 社殿

高床式住居のような、あまり見かけないタイプの社殿です。

ところで、この神社は、昔から「おりひめ神社」と言っていたのでしょうか。
市川歴史博物館の調査資料には、昭和63年(1988年)に日本毛織株式会社から奉納された鳥居に「こるとん神社」と書かれていたと記録があります。この調査は、平成8年ころ(1996年)に行われ、神社名も「こるとん神社」と記録されてました。
ネットを探し回って、やっとみつけました。平成18年(2006年)8月11日に、改称報告祭が行われ、「こるとん神社」から「おりひめ神社」になります。その記事には、創建時に工場の安全と繁栄を願い「おりひめ」と冠していたとあります。工場時代の名前に戻したということでしょうか。

壽稲荷大明神

おりひめ神社の境内には、稲荷神社も鎮座しています。
神額には、「壽稲荷大明神」。
どんだけ商売繁盛を願っているんだ...と思いますが、実は。

壽稲荷大明神は、おりひめ神社の境内社のように見えますが、市川歴史博物館の調査資料では、おりひめ神社の境内社とはしていません。

おりひめ神社の境内にある 壽稲荷大明神
おりひめ神社の境内にある 壽稲荷大明神

残念なことに、こちらの神社は、ネットで調べても何の情報も出てきません。

幟旗がでていますが、奉納者は、コルトンプラザのようです。
もしかして、コルトンプラザがテナントの商売繁盛を願って自ら建てたのが「壽稲荷大明神」で、日本毛織から引き継いだのが「おりひめ神社」という関係なのか。と思いましたが違いました。

手水鉢の奉納年にヒントがあります。

壽稲荷大明神 手水鉢
壽稲荷大明神 手水鉢

裏側に文字らしきものはありますが判読ができません。
市川歴史博物館の調査資料によれば、「安政七年庚申 二月吉日」と刻まれているそうです。
江戸時代後期の1860年には、壽稲荷神社はあったことになります。
工場(上毛モスリン)の稼働は1920年です。壽稲荷神社は、おりひめ神社より遥か前から、この地に鎮座していたことが分かります。

写真を撮っていると、直ぐ近くの飲食店から肉の焼ける美味しそうな匂いがしてきます。
折角なので立ち寄っていくことにしました。

稲荷神社(多分、屋敷神)

稲荷神社の所在地:千葉県市川市新田1丁目

市川橋方面に千葉街道を歩いているときに見つけたのが、こちらの稲荷神社。
広い空き地の真ん中に鎮座しています。
この空き地には3軒のお宅の玄関が面していて、私有地ではあるものの共有の場所のようにも見えます。

稲荷神社 道路から撮影
稲荷神社 道路から撮影

私有地または私道の扱いと思います。
立ち入って良いか悩みつつ、写真を撮らせていただきました。
横に植えられている木の幹の太さからすると旧家の屋敷神だったかも...

稲荷神社
稲荷神社

ゴールの市川橋へ

千葉街道の右側(北側)には、神社が複数あります。
コルトンプラザを出た後、千葉街道の右側を歩く選択をするも良しですが、私自身、既に何度か訪問済みの神社ばかりなので、あえて左側(南側)を通りました。

稲荷神社との新たな出会いがありましたが、ゴールの市川橋までの間で、興味を引くような古いものに出会えませんでした。

もし、このコースを始めて歩くのであれば、千葉街道の右側を歩くのがおススメです。

今回のルートですが
痛恨のミスで龍神宮(市川市高谷2丁目21−31)に立ち寄り忘れました。次のお楽しみにとっておきます。
まあ、高谷の龍神宮に寄っていたら、高石神社やおりひめ神社に寄らず、江戸川沿いの違うルートを歩いていたと思いますが。