JR武蔵野線市川大野駅を中心に周辺の神社や史跡を見て回ります。
今回の歩き旅に使用したのは、市川市のホームページにある「大町・大野町界隈」というコンテンツ。ホームページにある地図を印刷して持ち歩きました。
梨畑の中を歩いたり道に迷いに迷って途方にくれたりと色々ありました。
神社へのルートとしては最難関の妙見神社へのルート解説付き。
妙見神社攻略のキーとなったのは、いぼとり地蔵でした。
微発馬匹記念碑 (ちょうはつ ばひつ きねんひ)
微発馬匹記念碑の所在地:千葉県市川市大野町3丁目1667あたり 墓地の入り口
駅の改札を出たら線路の東側から散策するので、左に進み坂の途中まで登ります。
生コン業者の駐車場の手前を左折し、道なりに行くと墓地があります。実はこの道(松戸船橋線)は、昔からある道。こういうところを丹念に見て歩くと楽しいです。
墓地入り口にあったのが征清軍馬紀念碑(左)と文字が読み辛いですが馬匹微發紀念碑(右)。

微発馬匹記念碑という耳慣れない記念碑になります。
読むのも難解な「微発馬匹」は、(ちょうはつ ばひつ)と読みます。
戦争のために強制的に愛馬を取り立てられたことを後世に伝えるための石碑です。
左側の征清軍馬紀念碑が明治29年(日清戦争)、左の馬匹微發紀念碑が明治39年(日露戦争)。
庚申塔、道標
庚申塔、道標の所在地:千葉県市川市大野町3丁目(地番無し)
墓地のところで二又に分かれる道を左に進むと、山の斜面側に階段があり石柱が見えます。
折角なので、上ってみます。

そこにあったのは、4つの石柱。これらは、台座部分に3猿が刻まれたものもある庚申塔。
台座より上の部分に、お経「南無妙法蓮華経」が書かれているものもあります。
注目したのは、一番右の石柱。

安永5年(1776年)のものですが、道標にもなっています。
正面「東 船橋道」、右側面「右 金ケ作道」、左側面「左 行徳道」、裏面「西 松戸道」。
今昔マップon the webを使って、この道標が元々あったであろう場所を探してみました。本光寺と生コン会社の間にあると丁度良い道標です。

道祖神
道祖神の所在地:千葉県市川市大野町3丁目1625−1 大野地域ふれあい館のあたり
春日神社(三社宮)に入る手前の路傍に木製の祠があります。
中を覗くと、石祠があり「道祖神」と読めました。わらじも供えられています。

市川市歴史博物館の調査資料で奉納年を調べると、亨和3年(1803年)と書かれてます。
文字が読み取り辛いと思ったら、古いものだったんですね。
春日神社(三社宮)
春日神社の所在地:千葉県市川市大野町3丁目1625−1 大野地域ふれあい館の隣
大野地域ふれあい館で、楽器の練習をしているようで妙に賑やかな中で参拝しました。
神額には「三社宮」とあります。
境内には立派な御神燈が2組ありました。奉納年も彫られているのですが、皇紀なのでピンときません。(皇紀で書かれている方が昭和15年)

境内に由緒書きが見当たらない上、ネット上にも情報がありません。
市川市の資料をかき集めます。
別名、「うぶすな様」。
御門の鎮守。春日、野口、熱田の3社を祀る神社。

御門というのは、昔の地名です。
鎌倉時代このあたりは、迎新田・迎米(むかいごめ)・御門(みかど)・殿台(とのだい)の4郷で構成されていました。(wikipediaより)
この後も、この4つの地名が登場します。
字名でも、御門(みかど)、殿内(とのうち)、殿台(とのだい)、殿台下、迎米(むかいごめ)、馬寄場(うまよせば)、一ノ谷(いちのや)、ニノ谷(にのや)といったところに、お城があった名残が記録されています。
春日神社の狛犬
明治11年(1878年)奉納の狛犬。

春日神社の手水鉢
文政11年(1828年)の年号が入った手水鉢。
古いが良い状態のものがありました。

春日神社の境内社 熱田大明神
明治9年奉納の石祠ですが、正面部分の劣化が進んでいて、部分的に読めなくなっています。
右から、「大日天王」「●●熱田大明神●●●」「大月天王」と書かれてます。

読めない部分は市川市歴史博物館の調査資料に頼ることにします。
「●●熱田大明神●●●」の部分は、「祈●熱田大明神●攸」と書かれてます。
私の目からは、大明神の後ろは3文字で「木へんの漢字」「言べんの漢字」「攸」。
久々に市川市歴史博物館の調査資料でも解決できないやつでした。
首塚
首塚の所在地:千葉県市川市大野町4丁目2851 墓地
「駒形大神社 表参道入口」の石柱があります。
ここを曲がるのですが、その前に、この石柱が出ているところにある墓地に立ち寄ります。

墓地の一角に「首之塚」と書かれた石碑がでています。(市川市の地図では首塚と表記)
ここで何があったのでしょうか。恐る恐る墓地の中に入ってみます。

一般的な墓地の他に多数の石造物が並んでいます。

この場所が「首塚」と呼ばれるようになった理由は、「首之塚の石碑」の裏に書かれてました。
市川霊園の西参道を工事しているときに土手から3つの首が出てきたそうです。
この無縁仏を供養するために、ここに昭和38年に「首之塚」を建立した。
駒形大神社
駒形大神社の所在地:千葉県市川市大野町4丁目2758
表参道の入り口に、境内の案内図が出ていて大きな神社であることが分かります。
「駒形大神社と御奉謝(おびしゃ)」という説明書きが出ています。
駒形大神社は、経津主神を主神に、大野の地域に伝説として残る平将門を合祀した神社です。

階段を上っていくと広い境内に出ました。
訪問したのは12月中旬。初詣の準備なのかロープが張られ、東参道が出口に指定されています。
ロープを張っておくほど、参拝客が訪れる神社なんですね。

創建年は、不明です。
もの凄く古いという話もありますが、さっぱり分かりません。大きな神社なのに珍しいことです。
駒形大神社の狛犬
明治27年奉納の狛犬。
石工の名前が入ってました。「船橋宮坂 勘次郎」、有名なのかと思いましたが、そうでもないようで...。

駒形大神社の手水鉢(東参道)
表参道側の手水鉢は昭和48年のもので、面白みはありません。
写真の東参道側が古そうなので写真に納めました。
苔が生えていて文字が読みにくいですが、裏面に奉納年が入っています。嘉永3年(1850年)。

駒形大神社の境内社
駒形大神社の境内社 「駒形●●」と書かれた石祠
最初の境内社は、表参道の入り口にあります。
読める文字は「駒形」だけ。その下に3文字くらいありそうです。

市川市歴史博物館の調査資料にも出ていないので、何も分かりません。
駒形大神社の境内社 「殿台天満宮」
参道の階段を上ったところにあるのが、殿台天満宮です。
江戸中期に氏子が勧請したのが始まりとのことですが、平成2年に再建され、新たに北野天満宮から分霊を迎えたそうです。

「殿台」は、先ほど出てきた4つの地区名のひとつ。この辺りが、殿台だったことが分かります。
駒形大神社の境内社 「御霊神社」
立派な由緒書きが出ています。
御祭神は、鎌倉権五郎景政公。
元禄年間(1688~1704年)に本光寺勧請の記録が残っているそうです。
元は殿台(現在の大野町4丁目あたり)の西部に鎮座していたが、明治41年、この地に遷座。

駒形大神社の境内社 小祠はここ
境内の一角に鳥居があり、その先に多数の小祠が集められています。
その殆どに木札が出ていて、何が祀られた祠か知ることが出来るようになっていました。
それでは、鳥居に近いところから、時計回りに見ていきます。

駒形大神社の境内社 根本明神
「根本明神」と書かれた石祠が納められています。
市川市歴史博物館の調査資料によれば、石祠の右側面に昭和41年に再建されたことが書かれているそうです。

駒形大神社の境内社 崇随礼神
中にある石祠は文字が書かれていることが分かる程度で読み取ることができません。
市川市歴史博物館の調査資料でも、判読不能とされています。

駒形大神社の境内社 姫宮大神社
市川市歴史博物館の調査資料によれば、石祠の正面に「姫宮大明神」、右側面に「明和七庚寅正月吉日」と彫られているそうだ。明和7年(1770年)の奉納。

駒形大神社の境内社 大権現 (山王大権現)
石祠の文字は読み取れない。
市川市歴史博物館の調査報告書では、「山王大権現」としています。
明和3年(1766年)の奉納。正面に「山●大権現」と彫られ、●は「王」と推測していました。

駒形大神社の境内社 山神宮
私には、石祠の文字が読み取れなかった。
市川市歴史博物館の調査資料によれば、石祠の正面に「山神宮」、右側面に「天保九戌年二月吉日」と彫られているそうだ。天保9年(1838年)の奉納。

駒形大神社の境内社 稲荷大明神
一部読み取れない部分もありますが、石祠の正面に稲荷大明神と彫られている。
市川市歴史博物館の調査報告書によると天保11年(1840年)の奉納。

駒形大神社の境内社 雷電宮
市川市歴史博物館の調査報告書によると明和6年(1769年)の奉納。石祠の正面に「雷電宮」と彫られているそうだが、私の目には見えません。

ここで、あることに気が付きます。
小祠の内、明和年間に奉納されたものが3つあります。3つとも奉納者は同一人物。
村の有力者なのでしょうが、毎年のように祠を奉納するのは何故なんでしょうか。
駒形大神社の境内社 不明社
石碑と石碑の間に、ひっそりと置かれてます。
正面の文字は判読不能ですが、側面の文字はハッキリ読めます。「文政十」...
残念ながら、市川市歴史博物館の調査資料にも記載がないため、それ以上は分かりません。

道六神
道六神の所在地:千葉県市川市大野町4丁目2758
駒形大神社の東参道の階段を降りたところに鎮座しています。
境内社同様、名札が下がっています。中にある石祠の文字もハッキリ読め状態が良いことが分かります。

市川市歴史博物館の資料では、天保6年(1835年)の奉納年が刻まれているとのこと。
道路に面したところにありますが、案内板では駒形大神社の境内社。
馬頭観音と鮮牛塔
馬頭観音と鮮牛塔の所在地:千葉県市川市大野町4丁目2758
駒形大神社の広い敷地の端っこにあります。
駒形大神社の東参道を出て、大町動植物園方面に歩いて行くと境内と隣の梨園の境くらいの場所にあります。

明治、大正、昭和と奉納年はバラバラの大量な馬頭観音がありますが、ひとつだけ馬頭観音ではない石碑があります。
入り口の直ぐ脇、馬頭観音から仲間外れにされたように「鮮牛塔」があります。

鮮牛塔とは何なのでしょうか。鳥獣供養塔のひとつとされ、牛の供養をしていることは分かります。鮮牛とは、食用の牛なんでしょうか、農耕用の牛なんでしょうか。
この碑が奉納されたのが、昭和19年(1944年)。
ネットで、鮮牛をいくら調べても答えにたどり着きません。
馬頭観音
馬頭観音の所在地:千葉県市川市大町と大野町4丁目の境くらい
先ほどの馬頭観音からは徒歩で50歩ほど。
道路の反対側、小高い場所に馬道観音が多数あります。

階段を上ってみると、
綺麗に並んでいるものだけでなく、倒れてしまったものや、不法投棄されたゴミまで雑多なものがゴロゴロとありました。

それにしても、なぜ、この一角(道の両サイド)に馬頭観音が集中的にあるのでしょうか。
庚申祠(青面金剛)
庚申祠(青面金剛)の所在地:千葉県市川市大町411
動植物園に続く道路とぶつかるところに青面金剛が納められた祠がありました。

それ以上、判らないので先を急ぎます。
庚申塔(青面金剛)
庚申塔(青面金剛)の所在地:千葉県市川市大町274
日枝神社に到着する少し手前に青面金剛が2つありました。
左側が亨保13年(1728年)の奉納、右側が明和6年(1769年)の奉納。
明和6年の方が、側面の文字が読み辛くなってきています。

日蓮聖人供養塔
日蓮聖人供養塔の所在地:千葉県市川市大町274
日枝神社に到着。境内に入る前に、日蓮聖人供養塔を見ていきます。
右側が日蓮聖人供養塔。天明元年(1781年)の奉納。
左側の五輪塔型のものも日蓮聖人供養塔。元治元年(1864年)の奉納。

大町日枝神社
大町日枝神社の所在地:千葉県市川市大町274
大町梨街道と呼ばれる国道464号線が横を走る場所に鎮座しているのが大町・日枝神社です。
ここ大町は、昔は大町新田と呼ばれていました。
大町新田の歴史は、寛文10年(1670年)に開拓が始まった時からになります。

境内を見渡しても、ネットを探っても、創建年や由緒などは出てきません。
境内にヒントがないか気にしながら見て回ります。
さい銭泥棒対策なのか、拝殿に近づくと警報音がします。やましいことはしていないのに、妙に心がざわつきます。
拝殿前の燈籠に奉納年があります。寶曆(宝暦)7年、つまり1757年です。

順路に沿って、拝殿の裏に回ると、本殿に直接お参りが出来るようになっていました。
当然なのかもしれませんが、ここにも賽銭箱があります。
何か納得がいかないシステムです。
本殿前の燈籠は、安政5年(1858年)の奉納でした。

本殿の裏に回ると御神木植樹記念碑がありました。かつて、ここには杉の大木が2本あったそうです。推定樹齢が300年というので、大町新田が開拓され始めた頃に植えられたものでしょうか。
残された切り株を見たが、樹齢300年という割に...。話半分に聞いておくことにした。
大町日枝神社の狛犬
狛犬は、拝殿前と境内社の前の2か所に鎮座しています。
拝殿前の狛犬は、明治17年(1884年)の作。奉納者は、宇佐美角右衛門とあります。

境内社の前にいる狛犬は、修理痕があったり、顔面が崩落していたりと残念な姿です。
しかし、天保3年(1832年)のものとしては凄い技術力で、細部まで掘り出されていて、石工の腕の高さを感じられる作品です。見られて良かったと思います。

ところで、こちらの古い狛犬も奉納者が「宇佐美角右衛門」なんですが、代々、同じ名前なんですかね。それとも、御長寿なんでしょうか。
ネットで名前を検索すると、大町の「角右エ門梨園」が出てきました。
「角右エ門梨園」のホームページを見ると、名字は「宇佐美」さん。
大町日枝神社の境内にあったもの
「帝釋天」と書かれた庚申塔。明治6年の奉納。

中央が馬頭観音で明治44年の奉納。「武州上岡馬頭観世音」と刻まれている。
右側が、微発馬匹記念碑で明治39年の奉納。「微発軍馬紀念碑」と刻まれている。
左側も、微発馬匹記念碑で明治28年の奉納。漢字だらけの文書が刻まれている。

大町日枝神社の境内社 妙正大明神
石祠の正面の文字は、劣化が進んできていますが、「妙正大明●」まで読めます。
「當村講中」とも書かれているらしいのですが、もはや読み取れません。
石祠の右横に奉納年があり、弘化2年(1845年)のものと分かります。

大町日枝神社の境内社 天満宮
天満宮の台座のところに、老朽化が激しく粗末だったので昭和61年に造り直したことが書かれています。

大町日枝神社の境内社 山神宮
市川市歴史博物館の調査では、天保3年(1832年)のものだそうです。

大町日枝神社の境内社 不明社
何の手掛かりもありません。
市川市歴史博物館の石造文化財調査報告書にも掲載が無いので、そもそも木製の祠の中には石造物がないのかも。

牛頭天王 (礼林寺)
牛頭天王の所在地:千葉県市川市大野町4丁目3067 礼林寺境内
正式なお寺の名前は「曽谷山禮林寺(そうやさん らいりんじ)」。このお寺に立ち寄ったのは、市川市の地図上に神社マークがあったからです。
お寺の境内に神社マークが付けられるようなものがあると思わず、周囲をグルグル回ってしまいました。冷静に考えれば、神仏習合でお寺の中に神社があることは珍しくないのに。

お寺さんですが一押しは牛頭天王。子宝成就の寺として信仰されていると言います。
禮林寺は日蓮宗のお寺さん。市川市に多い宗派です。
なぜ、普段「禮林寺」と書かず「礼林寺」と書くのかは知りませんが、駐車場の看板や市川市の地図では「礼林寺」。「らいりんじ」とは、読みにくい表記です。

肝心の「牛頭天王」ですが、鳥居があること以外は、どうということもない建物です。
普段は「へー」とか「ホー」とか声が出るのですが、全く声になりません。
扉も閉まっているので、どこで手を合わせるのかも分からず...

道六神
道祖神の所在地:千葉県市川市大野町3丁目1948
天満天神宮に上る階段のところに道六神があります。
木の祠の中に石祠があり、ガラス越しでも、くっきり「道六神」と読める文字が彫られてました。
見た目は新しそうです。

今のところ、大野町の神社には、道祖神がセットになっています。
この先は、どうなっているのでしょうか。
天満天神宮
天満天神宮の所在地:千葉県市川市大野町3丁目1948
市川市立第五中学校のグランドの前にあるのが、天満天神宮です。

階段を上ると社殿が見えてきます。それにしても「階段を上ると神社」のパターンは、後から足にダメージがきそうな予感。
平将門が建立したと伝えられる神社ですが、意外な位こじんまりとした境内です。
階段手前にある説明書きには、「天慶元年(938年)に平将門が京都の北野天満宮を勧請した」とあります。

この高台から見える市立第五中学校の校舎も高台にありますが、第五中学校がある場所は大野城跡。この大野城を中心とした場所に平将門伝説が残っています。
天満天神宮の狛犬
市川市歴史博物館の調査資料によれば、明治7年の奉納。

天満天神宮の手水鉢
奉納年の部分が欠損していて、年代が分かりません。(「年正月吉日」だけ残ってました。)
市川市歴史博物館の調査資料では、嘉永6年(1853年)とあります。調査時の昭和63年は欠損していなかったようです。欠損する前に調査されてて良かったです。

天満天神宮の境内社 妙正大明神
祠の扉に鍵が掛かっていないので、失礼して開けさせていただきます。
中には石の祠があり、木の祠の壁に奉納者らしき方の名前が書かれています。
石祠の文字は「妙●大明神」。持参した市川市の地図では「妙正大明神」と記載されてます。

天満天神宮の後は、将門様とも称される弁財天祠を探して周囲をウロウロしてみましたが、どうやら中学校の校庭にあるらしく、諦めて先に進むことにしました。
本光寺 (稲荷堂)
千葉県市川市大野町3丁目1695−1
迎米三社宮へ向かう途中で出会ったのが、本光寺です。
普段ならお寺さんは通り過ぎるだけなのですが、稲荷堂の看板を見て足を止めました。
本光寺は日蓮宗のお寺さんで、正式名は「光胤山 本光寺」。正平16年(1361年)の創建です。

お寺の中に入ってビックリしたのは、神様、仏様が沢山いること。
仏教の神様は本堂、日本の神様は稲荷堂に振り分けられています。
本堂に鎮座しているのは、七面大明神、妙見菩薩、帝釈天、愛染明王、不動明王、大黒天、馬頭観音、龍神、仁王像、鬼子母神(3体)
稲荷堂に鎮座しているのが、稲荷神(本光寺稲荷大明神)、天満宮(大野天満宮)、加藤清正、源頼政、弁財天(出世弁財天)。
そう分類するかぁ~ とは思いますが、まあ賑やか。
本堂と稲荷堂それぞれでお参りするのでお賽銭は2倍! 本当に商売上手。

説明書きを読むと、
本光寺稲荷大明神は伏見稲荷大明神の御分身。御神鏡に明治41年の奉納と記載があるそうです。
大野天満宮に関しては、直接の言及ありませんが、先ほど訪問した天満天神宮の別当を務めていたことなどが書かれています。
出世弁財天は、昭和50年に渋谷駅の近くにあった弁財天の分霊を祀ったとあります。
加藤清正(清正公大神祇)の勧請時期は不明のようです。源頼政(源三位頼政和光尊儀)の造立は安永5年(1776年)と一気に古い年代。
道六神
道六神の所在地:千葉県市川市大野町2丁目833あたり
市川市のホームページによれば、昭和53年に建立。
石祠の右側にも、奉納年が昭和53年と刻まれています。

奉納者は、有限会社板橋建材。
「板橋」に注目して、次の迎米三社宮のところに進んでください。
迎米三社宮
迎米三社宮の所在地:千葉県市川市大野町2丁目833あたり
道祖神の横の階段を上れば、迎米三社宮です。
境内の表示(神額と由来書き)は「三社宮」と表記しています。
階段下と上に由来書きがありました。

「三社宮」は奈良の春日大明神、愛知の熱田大明神、兵庫の野口大明神を祀る神社。
大野迎米地区の守護神として古くから信仰を集めてきた。とありました。
でも、市川市のホームページには、こう書いてあります。
「この場所は、元々板橋総本家の稲荷神があった場所で、明治時代になって、御門の三社宮を分祀した」
迎米三社宮の狛犬
明治19年の奉納。台座には「明治十●九年 十月十九日」と刻まれているのだが、一部が欠損している●は何の文字でしょうか。「十」のように見えるが、「明治十十九年」って書く?

奉納者は、石井さん夫婦。この時代には村人みんなの神社だったのでしょうか。
迎米三社宮の手水鉢
苔だらけの手水鉢があります。
状態が悪いので、奉納年が目視で確認できません。
市川市歴史博物館の調査資料では、万延元年(1860年)の奉納になっています。

奉納者は、治郎兵ェさん、おひとりの名前のみ。
実は、板橋総本家の屋号は「治郎兵衛」。こんなところに板橋総本家の爪痕が残っていました。
庚申塔、迎米馬頭観音
庚申塔、迎米馬頭観音の所在地:千葉県市川市大野町2丁目786
道の横に、「帝釋天」と書かれた大きな庚申塔がありました。
さらに、その先に鳥居があることに気が付きます。折角なので、立ち寄っていきます。

「帝釋天」と書かれた大きな庚申塔は、天保15年(1844年)のもの。
この地域は、帝釋天好きが多いようです。日蓮宗が強い地域ということから来てるのでしょうか。
帝釋天は、仏教の神様の中で一番強い神様。勝負運や厄除などに御利益があるそう。

鳥居を入って正面に、庚申塔が3つ
写真右端のものが貞享4年(1687年)、中央が亨保3年(1718年)、左端が文政6年(1823年)。
どれもこれも「帝釋天」なのは何故なんだ。

右側には、馬頭観音像(文化10年)と微発馬匹記念碑が2つ。

鳥居正面の奥には多数の馬頭観音。奉納年も様々です。
迎米の馬頭観音というらしい。

ここの見学が終わったところで、妙見神社に向かいます。
コンビニのところで左折。迎米公民館の前を通る道を進み、地図に合わせて左折。
妙見神社は激ムズ
地図に沿ってやってきました。
畑の向こう側にある建物のようですが、鳥居や狛犬は見えません。
唯一、下駄箱がある質素な建物があるだけです。

ターゲットは見えているのですが、畑の中に入る訳にはいきません。
参道に繋がる道を探して30分近く、近所を周回してみました。さらに道を歩いている人にも尋ねますが、妙見神社すら知らないという返事。途方にくれます。
何となく、民家と民家の間の細い荒れ地を突き進めば、参道に出れそうなのですが、遭難しそうで決断できません。
いぼとり地蔵
千葉県市川市大野町2丁目964あたりの路傍
妙見神社を探しているとき見つけたのが、「いぼとり地蔵」。
市川市がホームページで提供している写真とお地蔵さんや祠が違うので、最近リニューアルしたのかもしれません。

市川市のホームページによれば
「迎米の旧家及川総本家の近くに祀られた地蔵は、いぼができたとき塩を供えると治るといわれ、「いぼとり地蔵」とも呼ばれている」とあります。
すぐ近くに「弁天様」があるのだが、見つけられなかった。(帰宅後ストリートビューを使って「弁天様」を発見したが、これは見つけるのは無理!って感じの場所でした。)
市川市歴史博物館の調査資料によれば、及川家の敷地にあり、弁天様と呼ばれているが、右側面に「八大龍王」と彫られているのだ。(龍神の弁天様という良く分からない組み合わせ)
妙見神社へのルートが判明
妙見神社へたどり着くことを諦めて、次の目的地に向かい始めている時です、妙見神社へのアプローチルートが突然判明します。
激ムズのルートが判明したのは「いぼとり地蔵」の御利益でしょうか?それとも先人たちの努力の結果でしょうか?
もちろん、いぼとり地蔵さまの御利益!
そのルートとは?
時間を30分戻して、「庚申塔、馬頭観音」のところから再スタートです。迎米公民館の前を通り、更に市民農園を過ぎたら注意です。
有限会社IMOというリサイクルショップ(工場)と梨園の間の道に入る
この場所が分かれば、間違いなくたどり着けます。
ここから、コの字型に進んで、目的地の妙見神社をめざすのですが、結構な大回りをすることになります。

すぐに両側に梨園が広がり、ここは農道(私道)と気が付きます。
門に行く手を阻まれたら右に曲がります
右に曲がったら梨園と梨園の間を進みます。
門の前までは舗装道でしたが、ここからはふかふかの土の上を歩きます。

梨園と梨園の間を歩いて行く感じは、農道というより境界線があいまいな私有地を通らせていただいているようです。
突き当たったら右です。
民家に突き当たるところで右に曲がるのですが、ここからは道があるように見えないのでドキドキです。

心配になるような道を先に進みます
もはや道なのか、梨園と雑木林の間のスペースというのか分からない状態です。
ここで体調不良で倒れたら、誰も助けが来ないのは間違いありません。
ふかふかの土の上には、自分の足跡と小動物の足跡しかありません。

それにしても小動物の正体は何なのでしょうか。
妙見神社 (妙見堂)
妙見神社の所在地:千葉県市川市大野町2丁目957の辺り
やっとたどり着いた妙見神社。
コンパクトですが、鳥居、手水鉢、狛犬と一通り揃っています。
他のサイトでは、地区の名前である迎米を付けて「迎米妙見神社」としているようです。
市川市歴史博物館の調査資料では、神社ではなく「妙見堂」と仏教系の表記です。

畑の向こうからも確認していましたが、シンプルな社殿です。
下駄箱があるので、地域の方が集まって中で神事を行うのでしょう。

鳥居にも社殿にも神社名が分かるようなものがありません。
何か由緒や歴史が推測できるものがないか見て回ります。
妙見神社の狛犬
小さめの狛犬が1対鎮座しています。台座に文字が彫られていますが読み取れません。
こんな時は、市川市歴史博物館の調査資料です。
明治34年の奉納。行徳町大和田の石工高梨春吉が作ったものです。

妙見神社の手水舎
コンパクトなサイズの手水鉢がありますが、年代が読み取れません。
狛犬同様に調査資料で確認します。明治34年の奉納。
おやっ、どっちも明治34年です。

鳥居の奉納年を市川市歴史博物館の資料で確認すると明治10年。
奉納者は「妙見講一同」
他にも市川市歴史博物館の資料に出てないかチェックしましたが、出ていたのはここまで。
結局、ここが神社なのか、仏教系の宗教施設(お堂)なのか判別できてません。
妙見信仰は平将門と関係していると言います。
ネットを駆使して調べます。行きついたのは真言宗智山派 梅松山円泉寺の住職が調査された「妙見菩薩・平将門資料集」。妙見様を祀る寺院、神社、石仏などの所在地のデータベース。
こちらの妙見神社(妙見堂)は掲載されてません。しかし、大野町 及川家と掲載があります。
及川家といえば、先ほど参拝した「いぼとり地蔵」の場所じゃないですか!
これで、参道が公道に面していない理由が分かりました。
それにしても及川家は農地も含め広大な敷地だったようです。あの門の先に今でもお屋敷があるのでしょうか。
道祖神
祠の所在地:千葉県市川市大野町1丁目92あたり
八幡神社に向かう途中で見つけた祠です。
祠の前には、榛名神社と書かれたお神酒がお供えされていますが、関係あるのでしょうか。

市川市歴史博物館の資料から、大野町1丁目の路傍に道祖神があることが分かっています。
細かい住所が書いてないので特定できませんが、大野町1丁目の路傍にある石造物は「道祖神」だけ。
八幡神社とセットなら、道祖神なのかという推測もできるのですが、100mほど離れています。
祠の扉を開けたら特定できたのでは、と思うと後悔が残ります。(何で遠慮したんだ!)
仮に道祖神だとすれば、正面に「道祖神」、右側面に「天明三葵卯」と入っているはず。
結局、何も分からず先に進むことになります。
後日、再訪問しました。
地面に座り、祠のガラスに顔を近づけて中を確認します。
石祠が確認でき、正面の文字も読めます。
予測していた通り、「道祖神」と書かれています。
天明3年(1783年)の石祠にしては、状態が良すぎるのが気になります。
八幡神社
八幡神社の所在地:千葉県市川市大野町1丁目136−1
八幡神社へ繋がる道が分からず、20分ほど周囲をウロウロしました。
お陰で、道に詳しくなりましたが、次に来る機会も無さそうなので、その知識は役に立ちません。

境内は至ってシンプル。
鳥居と手水舎、社殿と天水桶。狛犬はいません。
予想していた通り、境内の由緒書きはもちろん、ネットにも情報がありません。
境内で何かヒントになりそうなものを探し回ります。

困ったときの手水鉢。奉納年が刻まれていました。
元治元年(1864年)の奉納です。

今昔マップon the webで明治時代の地図を確認します。
このあたりは「大野新田」という集落で、現在地と同じ場所に神社マークがあります。
地図では大野町の昔の地名である迎米、御門、殿台が確認できますが、迎新田は見当たりません。
迎新田が大野新田に改称しているのだとすれば、それぞれの郷に鎮守があるということでスッキリするのですが...
八幡神社の境内社 妙正大明神
市川市歴史博物館の調査では、境内には「妙正大明神」と「稲荷大明神」の石祠があることになっています。どちらなのでしょうか。

薄暗い中で撮った写真を拡大したり、心の目まで動員していると、複数枚撮った写真の1枚がベストショット。石祠に書かれているのは「妙正大明神」と確認できました。文化11年(1814年)の奉納。
「稲荷大明神」の石祠は、どこに行ったのでしょうか?
まさか、さっき程の路傍にあった祠がお稲荷さんなのでしょうか。やはり、祠の扉を開けるべきでした。
神明神社(鎮守社)
神明神社の所在地:千葉県市川市奉免町41
最後は、奉免町の神明神社です。
到着すると、長い階段が待っていました。既に2万歩を超えている上、アップダウンのあるコースに足が限界に近づいています。神様は最後に試練を用意していたようです。
神額まで真っ赤な鳥居が印象的です。神額の文字は読み取り難くなり始めてますが「鎮守社」となっています。

階段を上った先に、シンプルな社殿が待っていました。
改築記念碑があり平成2年と書かれています。記念碑に刻まれた名前は高橋さんと河之邊さん。
ここも境内に由緒書きがありません。ネットで情報を拾いますが、由緒不明ということが分かった程度。

神明神社の狛犬
昭和13年奉納の狛犬。
奉納者の名字は高橋さん。

神明神社の手水鉢
昭和11年奉納の手水鉢。奉納者名がないが、手水舎に「河之邊さん」。

奉納した年代が違うので下の名前は違うのだが、「高橋家」と「河之邊家」に支えられた神社なのだろうか。
まとめ
この後、北方町の天神社に行って終わりにする予定でしたが、妙見神社と八幡神社の攻略に手間取ったこともあり、天神社に向かう途中でタイムアップとなってしまいました。
このコースはアップダウンも多く、交通量があるのに道が狭い場所も歩かないといけません。
肉体的、精神的タフさが要求されますが、結構、色々見れて楽しい歩き旅でした。
次回はタイムアップして訪問できなかった天神社、正体を確認でいなかった大野町1丁目の祠、見つけられなかった大野町2丁目の弁財天を見て回りたいと思います。