行徳道らしき道沿いで神社巡りしてきた(市川橋から行徳橋を歩く)

市川市内で千葉街道より南側にある神社を見たくて、市川橋から行徳橋方面に歩いてきました。

大和田、稲荷木、田尻、高谷という昔からの集落を通るコース。塩業が盛んだった集落の神社はどのような出会いになるのでしょうか。

観音寺前の庚申堂(市川市市川2丁目)

庚申堂の所在地:千葉県市川市市川2丁目13−16 観音寺前の公道

市川橋を渡って、松戸街道・産業道路との交差点付近にあります。

観音寺前の庚申堂
観音寺前の庚申堂

中にある庚申塔の側面に「これより行徳道」と彫られているらしいです。
扉を開けて中を見て良いのかが分かりません。一般的にどうなんでしょうか。

こういう時は、市川市歴史博物館の調査報告書を頼ることにします。
祠の中にあるのは、青面金剛像(3猿)、安政3年(1774年)のもので、左側面に「これより行とくみち」と入っているそうです。

青面金剛像
青面金剛像

祠の格子の間からカメラを向けて撮影。左側面に文字があることは確認できますが、読み取れません。

今日は、この「行徳道」沿いを中心に神社を見て回ろうと思っています。

宝神社(市川市市川南2丁目)

宝神社の所在地:千葉県市川市市川南2丁目9−4

いきなり、行徳道から外れた場所に移動します。市川駅南口から伸びる道路沿いに目的の神社はあります。

宝神社 鳥居
宝神社 鳥居

小さな神社ですが、由来の書かれた看板があります。

「昭和35年、宝製薬の工場内にあった宝稲荷神社を譲り受けて、この場所に遷座した。市川南地区の鎮守」と記載されています。

宝神社 社殿
宝神社 社殿

先ほどの看板にあった「市川町5丁目 圦下地区」について気になったので調べてみた。

「圦」の漢字が読めない。読みは「いり」。意味は「水門」。
明治時代の地図では水田が広がる地域でした。

大洲神社(市川市大洲2丁目)

大洲神社の所在地:千葉県市川市大洲2丁目11

大洲公園のあたりで、江戸川の方に行くと、この神社があります。

大洲神社
大洲神社

小さな神社ですが、ちゃんと由来が書かれた看板があります。
ありがたいことに、このあたりの昔の様子も書かれていました。

「真間浦が河口で、大洲は、その河口洲だった。600年前までは葦原(あしはら)だったが、開墾され水田になった。戦後、水田が宅地化されていったが、信仰する場所が本行徳の神明神社しかなかった。昭和35年に、屋敷の中にあった稲荷神社を移設し、参拝する場所を作ることができた。」と書かれてました。

確かに、明治時代の地図を見ると集落はなく、稲荷木から先の行徳あたりに人が住んできたことが分かります。

甲大神社(市川市大和田2丁目)

甲大神社の所在地:千葉県市川市大和田2丁目5−4

この神社の名前の読みは難しいです。
多くのサイトは、甲大(かぶと)神社としています。しかし、甲(かぶと)大神社としているサイト(メディア系)もあります。どちらが正しいのでしょうか。

甲大神社 一の鳥居
甲大神社 一の鳥居

木製の由来が書かれた看板がありました。既に文字が擦れていて、ほとんど読めません。
読めたのは、「創建は古い」「大和田村の氏神」くらい。
ネットで2014年に撮影された「由来書きの看板」写真を発見。そこから、記録のために文字起こしをしておきます。

甲大神社の由来
本神社御祭神は応神天皇を奉祀するとも伝え又大神の兜を祭るとも伝う
創建は古く人皇六十六代一条天皇の永延二年八月八日当地に鎮座
葛飾八幡宮の摂社にて「注連下」と称し大和田村の氏神たり
古来武将の崇敬厚く殊に武士たるもの当社前に於て乗打すれば落馬すると云い伝う
里人の信仰ありて奉賽の誠を致すもの尠からず
大正九年七月二十四日同所山皇後無格社天神社及同所無格社山王社合社の件許可せらる
平成十三年十一月吉日
氏子中

2014年撮影の「由来書き看板の写真より
甲大神社 社殿
甲大神社 社殿

明治時代の地図で確認すると現在地と同じ場所に神社があることは確認できます。
一番近い集落は、「稲荷木」ですが、少し離れています。そして、「稲荷木」より遠い場所に「大和田」という集落が確認できました。
この場所が、大和田と呼ばれるようになるのは、大正になってから。
江戸川放水路の工事により、「大和田」という集落が、こちらに移ってきました。
元々、「大和田」の飛び地だったのでしょうか。

甲大神社にあった歴史ある石造物

甲大神社 狛犬

明治33年奉納の狛犬。市川市歴史博物館による調査報告書では明治30年となっているが、間違いです。

甲大神社 狛犬
甲大神社 狛犬

甲大神社 御神燈

左右で年号が違うようです。私が確認した方は「文化九申」と読めました。文化9年(1823年)。
市川市歴史博物館による調査報告書では、もうひとつの御神燈は、文政6年(1812年)。

甲大神社 御神燈
甲大神社 御神燈

甲大神社 手水鉢

凝った感じの手水鉢は、天明2年(1782年)の奉納。

甲大神社 手水鉢
甲大神社 手水鉢

甲大神社 境内社

小屋の中に4つの石造物が納められいました。
それぞれに説明書きの木札が出ています。木札は劣化していますが、まだ文字を読み取れる状態なので助かります。
右端から順番に見ていきます。

甲大神社 境内社
甲大神社 境内社

甲大神社の境内社 庚申塔(三猿)

木札には、「庚申待」とあり、山王権現を祀ったことや山王の神の使いが猿だったなど、一般的なことが書かれています。
市川市歴史博物館による調査では、奉納の年号は判読不能と報告されています。

甲大神社の境内社 庚申塔(三猿)
甲大神社の境内社 庚申塔(三猿)

甲大神社の境内社 山王権現

木札では「山王さま」となっています。日吉(日枝)神社の御祭神といったことが書かれていた。
石の祠は、「山王」の文字が辛うじて読める程度のところまで劣化が進んでいる。奉納年不明。

甲大神社の境内社 山王権現
甲大神社の境内社 山王権現

甲大神社の境内社 稲荷社

木札では「お稲荷さん」と表示。伏見稲荷の話など一般的な説明が書かれていた。
こちらの石祠は修理痕だらけですが、文字はハッキリ読み取れます。
正面に「稲荷大明●」。側面に「文化●●年九月吉日」「大正11年2月修繕」
市川市歴史博物館による調査では、奉納の年は文化2年(1805年)。

甲大神社の境内社 稲荷社
甲大神社の境内社 稲荷社

甲大神社の境内社 天満宮

木札の文字はだいぶ擦れて読み辛くなっていますが、「天満宮」と表記されています。
石祠は、文字が彫られたところに朱色が入っているので、読めます。
正面に「天神宮」。(おやっ、「天満宮」じゃないのね)
市川市歴史博物館の調査では、奉納年部分は判別不能文字となっています。

甲大神社の境内社 天満宮
甲大神社の境内社 天満宮

甲大神社の境内にある祠は道祖神 

参道入り口にある祠ですが、説明書きの木札が劣化して文字の読み取りが不可能です。
祠の前には専用の鳥居があります。

甲大神社の境内にある祠
甲大神社の境内にある祠

祠には、いくつもの草鞋(わらじ)がぶる下げられています。

祠と草鞋(わらじ)
祠と草鞋(わらじ)

参道を入るか入らないかにある祠は、私の経験では「道祖神」とか「庚申塔(道標)」。
今回は「わらじ」というキーワードから「道祖神」と予想して、神社をでました。
帰宅後、資料で調べると予想通り。「足の神様として祀られた道祖神、文化10年(1813年)の奉納」
さらに調査を進めると、「北向道祖神」という名前であることが分かりました。

一本松跡にある延命地蔵尊、青面金剛、馬頭観音

一本松跡にある延命地蔵尊
一本松跡にある延命地蔵尊

バス停の真ん前にありました。
一本松跡というだけに松の根元の部分だけ残っています。

青面金剛像(三猿)の右側面が道標になっていました。
「これより右やはたとうり」と読めます。

この地蔵尊の前のバス通りは、本八幡駅の西側を通る道です。

左側面を確認してみると
「これより左 市川国分寺みち」と書かれていました。
こちらの青面金剛像は、正徳3年(1713年)のもの。

明治時代の地図で見ると、この場所は3叉路になっていて、行徳方面から歩いてきた人の道しるべになっていたようです。今は、京葉道路(自動車専用道)で分断されていて、当時の面影はありません。

一本松の庚申塔
一本松の庚申塔

この場所の石造物は、他に馬頭観音や「無縁精」と刻まれた石板などが見られます。

稲荷木稲荷神社(市川市稲荷木)

稲荷木稲荷神社の所在地:千葉県市川市稲荷木3丁目6

稲荷木稲荷神社
稲荷木稲荷神社

「稲荷木」が難読地名ですね。
読みは「とうかぎ」。地名の由来は、稲を干す棒から来ています。

由来を示す看板が出ていないので、ネットで情報を見つけることにしました。
稲荷木村の鎮守。
かなりの歴史ある神社のようです。鳥居に「寛政」と年号が書かれています。200年以上前の鳥居みたいです。

稲荷木稲荷神社 本殿木彫り
稲荷木稲荷神社 本殿木彫り

本殿の木彫りが見事です。
刀鍛冶の様子が彫られているが、どんな意味が込められているんだろうか。

稲荷木稲荷神社の歴史ある石造物

稲荷木稲荷神社の手水鉢

文政3年(1820年)奉納の手水鉢。

稲荷木稲荷神社の手水鉢
稲荷木稲荷神社の手水鉢

稲荷木稲荷神社の狛狐

左右で奉納年が異なるようです。確かによく見るとデザインも少し異なります。
私が確認した方は天保3年の年号が確認できました。反対側は明治29年。

稲荷木稲荷神社の狛狐
稲荷木稲荷神社の狛狐

稲荷木稲荷神社の境内社 天満宮

稲荷木稲荷神社の境内社 天満宮
稲荷木稲荷神社の境内社 天満宮

稲荷木稲荷神社の境内社 御歳大神

自然石の表面に「御歳大神」と彫られ、文字のところに朱が入っています。
朱の色が抜けかかっているので、「歳」の字はかなり読みにくい。
市川市の調査資料には、昭和20年の再建と記載があります。

稲荷木稲荷神社の境内社 御歳大神
稲荷木稲荷神社の境内社 御歳大神

稲荷木稲荷神社の境内社 出羽三山供養塔

出羽三山供養塔は、2つあります。

ひとつ目は、「出羽大神、月山大神、湯殿山大神」と刻まれ、大正15年の奉納のもの。

出羽大神、月山大神、湯殿山大神
出羽大神、月山大神、湯殿山大神

やたら難しい漢字ばかりの石碑がふたつ目。
「國幣中社出羽神社、官幣大社月山神社、國幣中社湯殿山神社」と刻まれてます。

國幣中社出羽神社、官幣大社月山神社、國幣中社湯殿山神社
國幣中社出羽神社、官幣大社月山神社、國幣中社湯殿山神社

稲荷木稲荷神社の境内社 石祠(右) 水神

石造りの祠が3つ並んでいます。右から順番に見ていきます。

「水」の字がはっきり読め、二文字目が「神」のように見えます。(一部欠損)
側面に「文政二」の文字も確認できます。
これらと市川市の調査資料から、「水神宮」と刻まれ、文政2年(1819年)奉納と判明。

稲荷木稲荷神社の境内社 水神宮
稲荷木稲荷神社の境内社 水神宮

稲荷木稲荷神社の境内社 石祠(中央) 疱瘡神

文字がはっきり読めます。
正面に「疱瘡神」、側面に「弘化三年」(1846年)

石祠(中央) 疱瘡神
石祠(中央) 疱瘡神

稲荷木稲荷神社の境内社 石祠(左) 疱瘡神

正面の文字は、「疱」の字が辛うじて読める程度。
側面の年号はハッキリ確認でき、「天保4年(1833年)」でした。
市川市の資料と付き合わせた結果、「疱瘡神」と結論。

石祠(左) 疱瘡神
石祠(左) 疱瘡神

行徳橋

行徳橋
行徳橋

今でこそ、橋が必要な河川がありますが、明治時代の地図には、この川はありません。
大正時代に洪水対策のため、この場所と行徳を川で分断することになる江戸川の大改修工事(江戸川放水路)が行われました。

田尻日枝神社(市川市田尻)

田尻日枝神社の所在地:千葉県市川市田尻4丁目12−8

田尻日枝神社 鳥居
田尻日枝神社 鳥居

お隣は法栄山浄経寺。
由来が書かれた看板はありません。ここもネットから情報を探します。
古い神社であることは確かなようですが、由緒や創建年に辿り着けません。
この辺りに多いパターンの安政3年の大津波で流失して資料がないというやつ。
でも、ちょっと待って。安政3年の大地震は八戸沖で発生したやつ。市川で被害でるかな?
安政3年の市川での水害は台風被害(高潮)。昔は高潮も大津波と記録してたらしいので仕方ないのかなあ。

市川市の広報誌に昔の田尻の様子が書かれてました。
「田尻」とは、田んぼの端っこという意味があるそうですが、昔は、塩田が盛んだったそうです。ちょっと、想像がつかないですが。
「田尻」や「稲荷木」は遠浅の海に出来た砂丘に人が住み始め集落になったとあります。

田尻日枝神社 社殿
田尻日枝神社 社殿

この田尻日枝神社まで向かう道が、旧道っぽい感じでしたが、後日調べると、「成田道」と呼ばれていた旧道でした。いまでは、この旧道は京葉道路(自動車専用道)の原木ICに繋がっていて、歩き旅には適さないですが。(道が狭いのに車がバンバン入ってきます)

田尻日枝神社の社殿は昭和の時代に改修されたものです。

境内にある「農耕記念碑」に創建年のヒントがありました。そこには
「当時の人々が村を形成していく過程で応仁元年郷の守り神とし大山昨命を御祭神とする日枝の祀を創建し(以下、略)」。
応仁元年は1467年。室町時代だが、本当か?
私の経験では、記録のない神社程、古い創建年という傾向が...

田尻日枝神社の狛犬たち

狛犬は拝殿の前に1対。境内社のところに3対が鎮座しています。
注目したいのは、境内社側にある古い狛犬。

拝殿前の狛犬は昭和の終わり頃から平成のもの

台座に昭和51年と入っていました。

拝殿前の狛犬
拝殿前の狛犬

境内社の前にも新しい狛犬が一対います(写真無し)。こちらは平成23年もの。

境内社前の狛犬

顔面が欠損するなど傷みが激しいが、如何にも古そうな狛犬が鎮座しています。
台座で奉納年を確かめると天保11年(1840年)の奉納。

境内社前の狛犬
境内社前の狛犬
境内社前の狛犬(子取り)
境内社前の狛犬(子取り)

境内社両サイドの狛犬

境内社の両サイドにも後ろを警戒するように狛犬がいます。
一目見ただけで、古いって判る狛犬ですが、台座がないので奉納年が分かりません。

境内社両サイドの狛犬
境内社両サイドの狛犬
境内社両サイドの狛犬
境内社両サイドの狛犬

田尻日枝神社の境内社

社殿の裏に回ると境内社があります。木製の祠が5つ。その左側に石祠が1つ。
説明書きや名札などは出ていません。左端の石祠から見ていきます。

田尻日枝神社の境内社
田尻日枝神社の境内社

田尻日枝神社の境内社 左端の石祠

石祠の中に更に石板があるようです。文字らしきものが確認できますが、判読不能です。

田尻日枝神社の境内社 左端の石祠

田尻日枝神社の境内社 木製祠が5つ

同じ形をした木製の祠が5つ並んでいますが、何も分かりません。
祠の中を覗いてみると、左端のひとつに石祠が納められているようですが、他の4つは空っぽ。
湯呑とサカキくらいしか確認できないので、お手上げ。

田尻日枝神社の境内社 木製祠が5つ
田尻日枝神社の境内社 木製祠が5つ

googleマップのクチコミに、この境内社は胡録神社であると書いている方がいました。
クチコミには「胡録神社の由緒の通り、6つのさな社殿があります」とも書かれているのですが、何か変。
胡録 ⇒ ころく ⇒ 小6 という図式なのでしょうか。
田尻日枝神社の境内社は、小さな6つの祠ではありますが、見た目は5+1という感じ。
当サイトでは、エビデンス不足と判断し、不明社の扱いにすることにしました。

神仏分離の際に、多くの大六天社は、名称を胡録神社にしました。
その由来は諸説ありますが、「大六 ⇒ 小六 ⇒ ころく ⇒ 胡録」となった説もあります。

龍神社(市川市高谷)

龍神社の所在地:千葉県市川市高谷2丁目21-31

外環自動車道と関連道路、江戸川に囲まれた場所に龍神社が鎮座しています。
龍神社の神額には「龍神宮」と刻まれているので、googleマップでは「龍神宮」と表示されるようです。

龍神社
龍神社

社殿の左側は、水産加工場のような建物。右側は遊漁店の駐車場となっているので、立ち入って良いのか迷います。

残念ながら、創建年や由緒などは分かりません。
昔、塩田があった地区は龍神や水神が多く祀られているので、歴史ある神社と思いますが、如何せん、周りにあるものが新し過ぎて、雰囲気がでません。

龍神社 社殿
龍神社 社殿

社殿横に石祠もあります。
文字が彫られているのは分かるのですが、全く読めません。
市川市の調査資料では「奉造立龍王宮●」と読んだ様子。背面にある多数の文字は、奉納者の名前が刻まれているらしい。

龍神社 祠
龍神社 祠

今日は、ここで引き上げることにしました。
帰りにニッケ・コルトン・プラザで買い物して帰ります。

おりひめ神社(市川市鬼高)

おりひめ神社の所在地:千葉県市川市鬼高1丁目1 ニッケコルトンプラザ

折角なので、ニッケ・コルトン・プラザ敷地内の神社にも寄っていきます。

おりひめ神社 由来
おりひめ神社 由来

「おりひめ神社」ってキラキラネームなのが、如何にもですが。
ちゃんと由来が書かれた看板があります。
モスリン株式会社、日本毛織株式会社、ニッケコルトンプラザへと引き継がれてきた神社であることが分かりました。でも、このキラキラネームはいつからなんでしょうか。
工場ができたのは大正時代になってから。モスリンは繊維業の企業です。
もしかして、最初から「おりひめ」だった?

閉鎖中です。カラスにも子育て中の事情があるようですが、困ったもんです。

おりひめ神社
おりひめ神社

扉の上に手を伸ばして撮影しましたが、参拝できてないものの写真を撮る意味はあるのだろうかと悩みます。