手元にある11年前の地図(旺文社)にはあるのに、googleマップで表示されない神社を見つけました。
宅地になって無くなってしまったのか気になって、千葉県市川市を訪ねてみました。
平川稲荷神社 (国分2丁目)
地図によれば、市川市国分2丁目23番地あたり。
最初の現地調査でたどり着けず、無くなったものと判断して退散。
その後、googleマップで見られる航空写真を丹念に見ていくと、鳥居らしきものを発見。
アプローチするルートが分かったので現地調査に再挑戦しました。
こんな住宅街(分譲地)の中を進みます。行き止まりの道路と住宅しか見えませんが入っていきます。
道路の右手に注意を払いながら、あらかじめ見つけていたアプローチルートまで進みます。
住宅と住宅の間に目ざす神社の参道を発見。この段階では、私有地に不法侵入の可能性があったので慎重に進みます。
ついに、社務所がある神社を発見。社務所には「平川稲荷社務所」と書かれています。
社務所は長いこと使われていない様子です。
何と手水鉢には天保の年号があります。「天保5年(1834年)」
平川稲荷神社は、江戸時代には鎮座していた歴史ある神社でした。
現在は、放置状態に近そうなのが、少し気になりますが、地域の守り神として残って欲しいものです。
尚、平川という地名は今昔マップon the webにおける1917~1954年の地図で確認できます。
尚、市川市歴史博物館が行った石造物調査では、「平河稲荷神社」と表記されています。
庚申神社 別名:根古屋庚申堂(国分5丁目)
地図によれば、千葉県市川市国分5丁目7番地あたり。
旺文社の地図では、庚申神社と表記されています。
市川市の資料(文化の街かど回遊マップ 国分・国府台地区編)では、昔の字名から「根古屋庚申堂」と記載しています。
但し、現在の自治会の区域割では、ここは「北台」自治会の担当エリア。また、市川市の別資料(国分・稲越界隈発見マップ)では、こちらを北台庚申塔と記述しています。市のやることは意外といいかげんなのだ。
庚申信仰なので、様々な宗教のミックス。神社というのには抵抗が多少あるものの、鳥居を目にすると、ここは神社でも良いかなという気持ちになります。
今昔マップon the webを使った明治時代の地図でも、現在地に存在していることを確認できました。
民家の横に鎮座していますが、屋敷神の類ではなさそうです。
赤い鳥居が屋敷神を連想させるのでしょうか。
祠の中は青面金剛像。
市川市歴史博物館の調査報告書を見ると、亨保18年(1733年)の奉納と左側面に刻まれているそうだ。
社殿手前の石灯篭は、裏に奉納された年月が入っています。
左右で年代が異なり、明治34年1月、天保14年(1843年)11月となっています。
奉納者が「當村 庚申講」と彫られた手水鉢。奉納は天保4年(1833年)。
庚申神社 別名:北台庚申堂(国分4丁目)
場所は、先ほどの庚申神社から20mほど北側にあります。
どうして、これほど近い場所に庚申神社があるのかは興味ある研究テーマですが、私の知恵では一生答えに辿り着きそうもありません。
地図では、千葉県市川市国分4丁目19番地あたりですが、19番地は畑ばかりで、19番地以降の住所が分かりません。
市川市の資料では、昔の字名から「北台庚申堂」と記載されています。
先ほどの庚申塔と同様の話しになりますが、現在の自治会区域割では、ここは「六反田」自治会の担当エリア。今時風に言えば、「六反田庚申塔」。
こちらの庚申神社は、紙の地図やgoogleマップでも非表示。近すぎて省略されているのでしょうか。
祠の中には「青面金剛」と書かれた石碑があります。
見ての通り、お花が飾ってあり、日々、管理されていることが伺えます。
市川市歴史博物館の調査では、右側面に、天明2年(1782年)の奉納年と「右 大はし道」。
左側面に奉納月と「左 まつと道」と刻まれているそうです。
境内には、他にも道標らしきものもあります。
「天保5年」「●羅安置」「奉納」「施主」「三十番」など部分的には読めるものの、全体像を理解できるところまで読み取れません。
肝心の道標部分も、草書体&達筆で、見えているけど私には読めないもどかしさ。
市川市歴史博物館の資料によれば、これは廻国塔というものらしい。
道標の方は、「左 ま津と道」だそうです。
昭和62年の調査時は、別の場所にあったらしく、「国分4丁目の路傍」と表記されている
市川市歴史博物館の資料では、国分4丁目にはもうひとつ庚申塔があるはずなのですが。
当日撮った写真を見ると、祠の中(左)に石柱の、ごく一部分だけ残っているようにも...後日、訪問すると祠の中に、不明だった庚申塔がありました。横向きになっていたものを、正面から見えるように直されたようです。
正面に「庚申塔」と刻まれたもの。明治44年の奉納。廻国塔同様に、もともとは、この場所ではない路傍にあったようです。
辨財宮 (市川市堀之内)
千葉県市川市堀之内1丁目20番地あたりに鎮座しています。
現地に向かう道路は、交通量があり大型車両も通るのに歩道の幅が狭く恐怖心を感じます。
特に歩道側から道路を横断して神社に向かう際は、クルマが止まってくれないので非常に大変。
イチョウの木が参道の入り口にあり、イチョウの葉が黄色くなり始めていました。
境内に入ると、落ち着いた雰囲気が漂う良い感じの神社だと気が付きます。
なぜ、googleマップにも出てこず、数ある神社紹介サイトにも掲載がないのか不思議です。
市川市歴史博物館も石造物の調査を行っていない場所です。
今昔マップon the webによる明治時代の地図でも、現在地に存在していることを確認できました。
ぽっと出の神社でもないのに何故。
手入れがされた境内です。
管理されることがなくなって荒れ放題になっている姿を予想していたのですが、ちゃんと現存していることが分かって良かったです。
神額には「辨財宮」の文字。「辨財天」じゃなくて「辨財宮」というのに引っ掛かりを感じますが、先に進みます。
手水鉢に年号や奉納者が彫られてました。
「明治17年、當村 宇田川●●」とあります。
境内には池があります。弁天と言えば、池。
境内社の水神宮
社殿の右横に、ビックリするほど小さい石柱があります。
文字の一部が欠けていますが、「水神宮」と読めます。
明治時代の地図では、周囲は田畑。雨乞いの要素が強めの水神宮のように感じましたが、どうなんでしょう。
纏め
11年前の紙の地図にしかなかった神社は、すべて現存していました。
現存していたどころか、江戸時代の年号が入ったものがあったりして、お宝を発見した気分です。
今昔マップon the webの現在の地図を使えば、今回の神社は全て表示されることを発見。
どうやら、千葉県内の神社巡りは2つの地図を併用した方が良さそうです。
地図では神社名が不明だった稲荷神社も、社務所に書かれた社号で「平川稲荷神社」と判明。
念のため、市川市内に同じようなパターンの神社が無いか地図を見比べましたが、今回調査した4社で全てでした。