(行徳巡り 第1回) 妙典で神社を巡ります ~ 妙典は意外と発見のある面白い街でした

千葉県市川市の妙典駅周辺の神社巡りをします。

今回は駅を起点にするのではなく、江戸川区篠崎と市川市河原の間にある江戸川水閘門を通っていくルートです。

東京メトロ東西線の妙典駅は2000年の開業。私のイメージでは区画整理された新しい街なのですが、実際は東西線の北側は古い町並みが残っている面白い場所でした。

江戸川水閘門 (えどがわ すいこうもん)

江戸川水閘門(別名、篠崎水門)の上を通って旧江戸川を越え、江戸川区側から目的地の妙典に入ります。
水門を渡った後は、江戸川の土手を歩いていきますが、このあたりの雰囲気は、まるで昭和にタイムトリップしたかのよう。

江戸川水閘門
江戸川水閘門

河原春日神社と胡録神社

河原春日神社の所在地:千葉県市川市河原6−20

ふたつの神社が同じ敷地内に並んで鎮座しています。
どちらかが、境内社となるような関係ではなく対等な関係で鎮座。
でも、ひとつ大きな問題が...

河原春日神社

このあたりの神社やお寺さんは、由緒や見どころを書き記した看板が出ていて非常に分かり易いです。

由緒書きより
「大永7年(1527年)創建」「行徳町大字河原58番地西側にあったが江戸川放水路工事のため大正3年に現在地に遷座」

河原春日神社
河原春日神社

この神社が鎮座する河原という場所は、江戸川放水路を開削した時に、集落の半分が水没しています。
と同時に、陸続きだった市川市と切り離され2方向が川となります。

胡録神社

寛永12年(1635年)に創建。

神様の話しは良く分かりませんが、御祭神のところに記載された「イザナギ命の前に生成した神様」が何か引っ掛かる。

胡録神社
胡録神社

境内社

境内社が2つの神社の区別なく並んでします。
正確な表現をするならば、水神社は胡録神社の境内社、三峯神社と金比羅神社が河原春日神社の境内社です。仕訳けながら見ていきましょう。

河原春日神社の境内社の三峯神社

大きめの木製の祠が3つ。一番右側は、神額が出ているので明確です。
「三峯神社」で確定。

河原春日神社の境内社の三峯神社
河原春日神社の境内社の三峯神社

境内社 天神宮と不明社(多分、龍神)

神額は出ていません。祠の中を覗くと、石造りの祠が2つ見えます。

境内社 天神宮
境内社 天神宮

左側の石造りの祠には、「天神宮」とあります。
右側の石造りの祠には、草書体で「●●神宮」とあります。ハッキリ見えているのに読めないもどかしさを味わうことになりました。一文字目が「風」のような漢字。2文字目が「龍」のような雰囲気の漢字です。
「風龍(ふーろん)」という名のラーメン屋は知っているのですが、神様は知りません...

境内社 一番左は正体不明社

祠の中を覗いても、何も手掛かりはありません。(他のサイトでは、稲荷神社としていました。稲荷社としたエビデンスが不明なので、当サイトでは不明社としています)

他の祠が金比羅神社でなければ、この祠が「金比羅神社」かもしれません。
他の祠を見ていきましょう。

一番左は正体不明
一番左は正体不明

境内社 稲荷神社

一番右の木製の祠から確認していきます。
祠の中に、狛狐がいるので稲荷神社と判断しました。

境内社 稲荷神社
境内社 稲荷神社

境内社 石造りの5つのものを見ていく

5つある石造りの小祠や石柱を、右から順に見ていきます。

境内社 石造りの5つ
境内社 石造りの5つ

右側2つの石仏系は、青面金剛像。

真ん中にある一番小さな祠には文字が刻まれています。「水神宮」とあり、胡録神社の境内社に一致します。

その左隣の祠にも文字が刻まれていますが、「●●●神●」と5文字書かれていることが分かる程度。
心の目まで投入すると「神」の前の文字は「羅」のように見えます。ここから「金比羅神社」と推測。

一番左は、円筒形のものですが、文字がありません。お線香を置くような台があるので仏教系の何かなのですが...

先ほどの青面金剛像を拡大したのが、こちら

写真左が元禄10年(1697年)、写真右が亨保11年(1726年)

河原 春日神社の庚申塔
河原 春日神社の庚申塔

出羽三山登山記念碑

登山日が昭和51年と割と最近。
戦後、レジャーとして登山が行われるようになり、登山信仰のブームが去った後の記念碑は珍しいのではないか。

出羽三山登山記念碑
出羽三山登山記念碑

下妙典龍玉宮

下妙典龍玉宮の所在地:千葉県市川市妙典5丁目4−22

googleマップでは、神社マーク付きで表示されますが、神道系ではなく仏式の作法になります。
鳥居がありますが、お線香を焚くことやお寺さんが幟旗を出すことなど、結構、神道とは違うようです。

下妙典龍玉宮
下妙典龍玉宮

東京メトロ東西線の妙典駅前にあるイオンから徒歩1分という場所にあります。
写真からも判るように、妙典3丁目自治会も関係する場所に下妙典龍玉宮は鎮座しています。

下妙典龍玉宮 祠
下妙典龍玉宮 祠

境内に由緒書きがあります。
「宝暦2年(1752年)の建立」「下妙典村は津波と洪水と戦う土地であったため水(海)の神として龍神を祀った」とあります。

正式名は、「南無八大龍玉宮」なのだろうか。

神仏習合、神仏分離の研究対象として、とっても興味深い。

上妙典竜宮(八大龍王)

上妙典竜宮(八大龍王)の所在地:千葉県市川市妙典6丁目8−21

こちらは、上妙典村の「南無八大龍王宮」。
下妙典村の「南無八大龍王宮」からは徒歩で6~7分という距離感。

上妙典竜宮様(八大龍王)
上妙典竜宮様(八大龍王)

こちらにも由来書きがあります。
「安永3年(1774年)創建」「村民が願主となり、一切無障礙(いっさいむしょうげ)、海上安全、製塩業繁栄を祈り、妙好寺の日賢上人がお祀りされたもの」だそうです。
由来碑は妙好寺総代が奉納。
龍王というだけあって、龍の絵があっちこっちにありました。

妙好寺は、妙典1丁目にある日蓮宗のお寺さんです。
八大龍王は、法華経に登場し仏法を守護するもの。一般的には龍神(水の神様)として知られ、神社に祀られることもあります。

上妙典 八幡神社

上妙典 八幡神社の所在地:千葉県市川市妙典1丁目11−16

こちらの神社の由緒書きは、文字が多いです。しかも、妙好寺を見てきた人向けの記述。
上級者向きです。覚悟して読みましょう。(私ですか?初心者レベルの上、関連施設を見てません)

上妙典 八幡神社
上妙典 八幡神社

「創建は宝永6年(1709年)」「篠田重左ェ門家の社が後年この土地の神社になっていった」
「妙好寺と一体の社だった」「八幡神社の御神体は僧形八幡大菩薩」といったことが書かれている。

文面からすると「妙好寺も創建時は篠田重左ェ門家の寺だった」ようだ。

妙好寺と上妙典八幡神社の距離感は、下の写真の通り。

妙好寺と八幡神社
妙好寺と八幡神社

隣接している上、境内を行き来できるようになっています。

見どころは、本殿にある彫刻だそうです。私は見忘れてしまいました。後日、再訪問し妙好寺と合わせて見てきました。

上妙典 八幡神社 社殿
上妙典 八幡神社 社殿

本殿は覆いがされていて見ることはできません。僅かに社殿の右側に覆いの無い場所が2か所あり、そこから覗き見ることができます。立派な彫刻ですが遠すぎて良く分かりません。残念!

上妙典 八幡神社 本殿
上妙典 八幡神社 本殿

上妙典八幡神社 本殿前の狛犬

本殿の前に、古そうな狛犬があることに気が付きます。
近付くことができないので、遠くから写真を撮っておきました。

上妙典八幡神社 本殿前の狛犬
上妙典八幡神社 本殿前の狛犬

次回は、奉納年の読み取りにチャレンジしてみたいと思います。

妙好寺

妙好寺の所在地:千葉県市川市妙典1丁目11-10

普段はお寺さんに行かないのですが、上妙典八幡神社との関係や、境内に稲荷神社があったりするので立ち寄ることにしました。

素敵な山門がお出迎えしてくれます。この山門は、宝暦11年(1761年)の造立。

妙好寺 山門
妙好寺 山門

山門をくぐると、番犬がお出迎え。番犬くんは、しばらく吠えていましたが、お参りし始めると静かに。寒い日だったせいか、番犬くんはお腹を壊しているようで...ちょっと可哀そうなことに。

山門の脇に祠があります。

千葉大明神

特に説明書きは出ていません。

千葉大明神
千葉大明神

妙好寺の開山は永禄8年(1565年)。開基檀頭が千葉氏千田の子孫、篠田雅楽助清久だったことが関係しているのでしょうか。
見ていても分からないので、手だけ合わせて先に進みます。

妙好寺の稲荷神社

お寺さんの中のお稲荷さん。神社ですがお寺の中にあるので仏教の作法でお参りするお稲荷さんです。
手元の資料では、石祠が納められており、「稲荷大明神」「寛政元年(1789年) 九月吉日」と書かれているそうです。

妙好寺の稲荷神社
妙好寺の稲荷神社

神仏分離の頃は、どうしていたのでしょうか。

妙典 春日神社

妙典春日神社の所在地:千葉県市川市妙典3丁目6−12

境内のイチョウが黄色く色づき綺麗です。鳥居の横に遊具があり小さな子供と母親が遊んでいます。
カメラを妙に左に振って撮ってますが、写り込まないようにとの配慮から。

清壽寺というお寺さんの参道横にあります。何か関係があるのでしょうか。
清壽寺と妙典春日神社は住所が同じ。どこにも書いてませんが、江戸時代までは清壽寺が別当を務めていたとでも言いたげな感じです。

妙典 春日神社
妙典 春日神社

いつもの看板には、安政3年(1856年)の大津波で記録が流出し由緒不明となっています。
それとは別の場所に紙に印刷された由緒書きがでています。
「妙典村が上妙典村と下妙典村に分かれたころ、下妙典村の村民が地域の平安と繁栄を願って祀られた鎮守様が始まり」

妙典 春日神社 社殿
妙典 春日神社 社殿

本殿は、芸術的価値があるというほど立派な彫刻があるそうだ。私はここでも見忘れました。覆いがある上、近くに寄ることすらできないよう柵まであります。

手水鉢は天保10年(1839年)の奉納。

妙典 春日神社 手水鉢
妙典 春日神社 手水鉢

文化4年(1807年)の御神燈。

妙典 春日神社 御神燈
妙典 春日神社 御神燈

寛文10年(1670年)の灯篭。
上妙典村と下妙典村に分村したのは江戸時代という話ですが、江戸時代前期には分村していたようです。
更に言うと、妙典村は河原村から分村しています。分村した年代は不詳ですが妙好寺が創建した後、つまり永禄8年(1565年)以降。この時期に急激に世帯数が増えながら分村をしていったことが分かります。

妙典 春日神社 灯篭
妙典 春日神社 灯篭

昔は大人気だった力石。
結構、いろいろなところで見掛けます。

妙典 春日神社の力石
妙典 春日神社の力石

顕本山 清壽寺

顕本山 清壽寺の所在地:千葉県市川市妙典3丁目6-12

折角なので、清壽寺に寄っていきます。
顕本山 清壽寺は日蓮宗のお寺さんで、通称「ぜんそく寺」と呼ばれています。
慶長2年(1597年)の創建。こちらのお寺さんも、創建に千葉胤貞の子孫が関係したと言います。

清壽寺 本堂
清壽寺 本堂

看板には、こう書いてあります。(意訳してます)
「治りたいなら神仏を信じること、そして医者の薬も信じること」

耳病守護 神猿おちか

猿七射霊神(親子七体の猿を彫って供養)と呼ばれる耳の病に効くと言われる神猿です。
奉納は昭和28年。
猿だけど「神」が付くってことは、お寺の中の神様って話ですか。

耳病守護 神猿おちか
耳病守護 神猿おちか

顕本山巽守護霊神堂(御祭神は不明)

清壽寺の守り神様ということでしょうか。
詳しくなくて、すみません。

顕本山巽守護霊神堂
顕本山巽守護霊神堂

手元の市川歴史博物館の調査資料には、石祠がひとつあると記載されてます。それが、該当するか不明ですが、記載しておきます。
正面の文字は判読不能。側面に「嘉永元申四月十九日」「江戸小網丁三丁目 伊勢屋幸助」と入っているそうだ。嘉永元年は1848年。
明治初めの神仏分離の時に、正面に刻まれていた文字が分からなくなるように削ったのでしょうか。

本塩豊受神社

本塩豊受神社の所在地:千葉県市川市本塩1−9

近くの小学校の下校時間に重なったようで、大勢の小学生が歩いています。
本塩豊受神社の境内にも道草を食う小学生がいました。
そういうところは、昭和の時代の小学生と令和の時代の小学生は共通だなと...

本塩豊受神社
本塩豊受神社

説明書きの看板を見ると、お祭りの話しとか色々書いてあるのですが、由緒書きや見どころの説明がありません。
どうやら、本当に由緒が分からない神社のようです。困りました。

本塩豊受神社 社殿
本塩豊受神社 社殿

困ったときの手水鉢ではないですが、いつものように奉納年を確認。
文政7年(1824年)の奉納でした。

本塩豊受神社 手水鉢
本塩豊受神社 手水鉢

境内に青面金剛像があります。
奉納年などの文字が無いか見て回りますが、確認できません。
市川市の調査資料によれば、右側面に奉納年があるそうです。「元禄3年(1690年)」

青面金剛像
青面金剛像

明治の地図で確認すると、このあたりは鹽焼町(しおやき)という地名だったことが分かります。
行徳は塩業が盛んだった場所です。
ここよりずーと海寄りの場所に「塩焼」という地名がありますが、1980年代になって「塩焼」という地名を別の場所に復活させたものです。
また現在の地名である「本塩」は、「行徳」と「焼」を足して頭を取ったのそうです。

行徳神明(豊受)神社

行徳神明(豊受)神社の所在地:千葉県市川市本行徳1−10

行徳街道沿いにある神社です。
いつもの看板を見ると「行徳五ヶ町による大祭」という説明しか書かれていません。
困ったなと思いながら境内に入ると市川市教育委員会設置の立派な由緒書きが出てました。

行徳神明(豊受)神社
行徳神明(豊受)神社

歴史のある神社ですが、社殿は比較的最近建て直されています。
2007年に放火による社殿の焼失という事件があったのだそうです。
再建にあたっては、焼失した社殿の再現、周辺の神社と同じように神明造とすることを要望に出されたそうです。

行徳神明(豊受)神社 社殿
行徳神明(豊受)神社 社殿

修行者(山伏)の金海法印が、大永年間(1521~1528年)に、江戸川対岸の中州(現在の江戸川区篠崎)に伊勢内宮(三重県)の土砂を遷し、内外両皇大神宮を勧請したことに始まると伝わります。
寛永12年(1635年)に大社に建替えられ、現在地に遷座したようです。

実は、対岸の江戸川区東篠崎2丁目あたりに、江戸時代には行徳領で中洲という集落がありました。今でも対岸には金海稲荷神社という金海法印に関係してそうな稲荷神社があります。
地図を見る限り、明治時代には川の中に中洲は存在せず、中洲という江戸川区と陸続きの集落しかありません。
私の推測
「金海法印は、中洲を埋め立てて領地(田畑)を広げるような実業家に近い人物だったので、金海の別称であった「行徳」を地名にするほどの村の実力者にのし上がれた」「゛中洲を埋め立てた話し゛が゛伊勢内宮(三重県)の土砂を遷し゛と伝言ゲームをしているうちに変化した」「寛永12年に行徳神明(豊受)神社が遷座した後も、中洲に小祠が残り、やがて金海稲荷神社と呼ばれるようになった」 あくまでも私の推測ですが。

ひとつ不思議なことがあります。由緒書きには内宮、外宮の両方を勧請したとありますが、神額に書かれているのは「豊受太神宮」。市川市の神社一覧を見ても御祭神は「豊受大神」のみ。
もうひとりの神様は、どうした?

神仏分離のころ(明治の初め)に一斉に神社が名称を変更しました。
神明社という名称を使っていた神社は、天祖神社や豊受神社となったのが多いかと思う。
個人的な感覚では、江戸川区側は「天祖神社」、市川市側は「豊受神社」が人気だった。

行徳神明(豊受)神社の狛犬

シャッターを切りたくなるような、良い感じの狛犬が鎮座していました。
右側の阿形の狛犬は、よく見かける子取り。親犬の前足は、子犬を抱きかかえるような位置にあります。

行徳神明(豊受)神社の狛犬(右)
行徳神明(豊受)神社の狛犬(右)

左の吽形も子取り。背中から子犬がこちらを見ているデザイン。
この一対の狛犬が凄いところは、子犬も親と同じように阿吽の口になっているところ。
芸が細かい。

でも、ちょっと変なんです。

行徳神明(豊受)神社の狛犬(左)
行徳神明(豊受)神社の狛犬(左)

不自然に浮いた親の手(前足)。
まるで、その下に珠でもあったような雰囲気。そう、昔は珠があったのではと疑ってます。

この狛犬の奉納は、台座に嘉永7年(1854年)と年号が入っていました。
更に石工の名前として、治兵衛。石工と書かれた前の行に「川原」とあります。
この神社の前を通る行徳街道沿いに「小林治兵衛石材工業」(市川市河原)という狛犬も扱う石材店があります。ここの先代が作ったのでしょうか。

行徳神明(豊受)神社の境内社

形状が同じ社殿が3つ、力石を挟んで少し小ぶりの社殿が1つ。計4つの境内社があります。
右から順に見ていきます。

行徳神明(豊受)神社の境内社 道祖神

社殿に神社名が書かれた木札が下がっています。一番右は「道祖神」
社殿の中にある石造りの祠にも「道祖神」とくっきり彫られてます。

行徳神明(豊受)神社の境内社 道祖神
行徳神明(豊受)神社の境内社 道祖神

行徳神明(豊受)神社の境内社 水神社

真ん中は「水神社」。
中にある石の祠の状態が非常に良いので、最近新調したのかも(道祖神も同じコンディションだった)

行徳神明(豊受)神社の境内社 水神社
行徳神明(豊受)神社の境内社 水神社

行徳神明(豊受)神社の境内社 金刀比羅社

左側は、「金刀比羅社」。

行徳神明(豊受)神社の境内社 金刀比羅社
行徳神明(豊受)神社の境内社 金刀比羅社

行徳神明(豊受)神社の境内社 稲荷社

先ほどの3つの社殿同様、木札がぶる下がっています。
「稲荷社」と記載され、社殿の前に狛狐が1対置いてあります。

行徳神明(豊受)神社の境内社 稲荷社
行徳神明(豊受)神社の境内社 稲荷社

庚申塔

「猿田彦大神」と書かれた石板が置いてあります。

本行徳 豊受神社の猿田彦大神
本行徳 豊受神社の猿田彦大神

板面に書かれた文字は、「猿田彦大神」の他、「臺町目」「講中」
裏面に年号が入っているそうですが、当日確認し忘れたので、手元の資料に頼ります。
「嘉永元戊申秋九月」。嘉永元年(1848年)の庚申塔です。

行徳町道路元標

境内には「行徳町道路元標」と彫られた石柱もあります。
大正11年の内務省令により設置することとなったもの。100年くらい前のものです。

行徳町道路元標
行徳町道路元標

下新宿稲荷神社

下新宿稲荷神社の所在地:千葉県市川市下新宿2−6

下新宿稲荷神社は、一番最初に訪問した河原胡録神社・河原春日神社からは、150mほど行徳街道を進んだところにあります。
河原村、上妙典村、下妙典村、下新宿村が比較的コンパクトな場所にあったということが実感できます。

下新宿稲荷神社
下新宿稲荷神社

さて、宿場町であった下新宿村にあった下新宿稲荷神社は、どんな神社だったのでしょうか。
見ていきましょう。
いつもの看板には「下新宿の里の鎮守社として寛永12年(1635年)創建と言い伝えられている」とあります。社殿は「明治30年に本殿の再建、平成9年に拝殿の修復」を行ったそうです。

下新宿稲荷神社 社殿
下新宿稲荷神社 社殿

下新宿稲荷神社の境内社

左側が水神社、右側が稲荷社。
案内板では、水神社と稲荷社があることしか分かりません。
祠の前には、油揚げがお供えされていますが、2つの祠ともお供えがあるので区別がつきません。

下新宿稲荷神社の境内社
下新宿稲荷神社の境内社

祠の中を覗くと、左の祠の中にある石造りの祠に水神の文字がありました。
右は、お神札が納められてますが、どこの神社のモノか確認できません。

まとめ

今日見て回った地域(河原、上妙典、下妙典、鹽焼、本行徳、下新宿)は、江戸川と海に囲まれた地区であるため、洪水や大津波の被害も受けてきた地域です。
そういったことから水神や龍神が多く見られました。

交通の便が良いこともあって、神社やお寺などを巡る方が多く訪れる場所です。
それだけに、調査されつくしているのかと思っていましたが、意外と謎が残っていることに気が付きました。

次の訪問では、行徳地区の残りの神社を一気に巡っていきます。

続きはこちら。次回は、本行徳で神社巡りします。