元佐倉道を、江戸川区北小岩から台東区浅草橋まで歩いてみました。
昔の文献によれば、両国橋まで3里の道のりだそうです。
歩き始める前に市川(千葉県)との境目を見ておきます
現在の県境越え(国道14号線 千葉街道 市川橋)
片側2車線の道路。橋の真ん中が県境。かなり年季の入った橋なので、大型車両が通過する時に揺れて怖い。
江戸時代の県境越え(小岩市川の渡し跡)
今は、河川敷に野球のグランドが広がっているが、江戸時代は、あの辺りまで田んぼだったはず。
徳川の将軍が鷹狩に行くときは、渡し船ではなく、船をつないで橋のようにしたらしい。
いきなり小岩菖蒲園に寄り道
土手の上から見ていたら、小岩菖蒲園で花が咲いているのが見えました。
そうそう来る機会がないので、いきなり寄り道しちゃいます。
まだ3分咲きですが綺麗に咲き始めました。
ここから元佐倉道が始まります
先ほどの渡し跡の看板から土手を降りて、T字路でぶつかる道が元佐倉道です。
T字路の斜め左前方に道標があるので、見てからスタートします。
御番所町の慈恩寺道石造道標
安永4年(1775)建立。
正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」
右側面には「左りいちかわミち」
左側面にも「右いち川みち」
江戸川区の説明文によれば、上記のように書かれているとのことですが、右側面は民家の塀があり今は見ることができません。
江戸川区の区間
宝林寺 (江戸川区北小岩)
もと「小岩・市川渡」にあった高さ四メートルに近い常灯明があるとのことで、立ち寄ってみたが、本堂の建て替え工事中で見ることができなかった。残念。
本蔵寺 (江戸川区北小岩)
小岩市川関所の役人を代々務めた中根氏の菩提寺といわれている。
寺の入り口にある石柱(門柱)が立派だったので、思わず写真を撮った。
千葉街道、蔵前橋通りとの交差点を通過
写真からは判り難いですが、ここは五叉路。陸橋を使って横断しました。
写真正面が、これから向かう千葉街道(元佐倉道)
左曲がると市川橋があり千葉方面に向かう千葉街道。右に曲がると蔵前通りがあります。
総武線のガード下を抜けます。その先は一里塚交差点
一里塚交差点も複雑な5叉路。車を運転していたころは右に左にレーンを変えながら交差点を抜けなけらばならず、気を使った場所でした。
昔は、このガードを抜けたところに一里塚があったらしいですが、今はありません。
一里塚の説明を書いた看板がバイク屋さんの駐車場のところにあります。
説明書きにある須賀神社は、ホンダドリーム江戸川などがある場所にありました。
二枚橋交差点
交差点の手前に鶏を飼っているお宅がありました。ゲージから頭出していたのでビックリ。
「橋」が付く交差点ですが、「橋」はありません。江戸川区内は、こんな交差点が結構あります。ここの交差点は5叉路。多叉路の多いのも特徴かもしれません。
橋の名前が書かれた柱が記念に残されています。
ここ(鹿本通り)は、江戸時代から昭和まで東井堀という農業用水路が流れていました。
今は道路下を流れる暗渠となり、橋が必要なくなりました。
新中川を小岩大橋を渡って超えます
新中川は、昭和13年から昭和38年に作られた人工の川です。江戸時代は無かった川を橋を使って超えていきます。
橋の照明の上には鷹のモニュメントが付いています。この道が、徳川将軍の鷹狩のために作られたことを表現しているそうです。鷹狩のために作った道のため、集落などを無視して最短距離で江戸と目的地が繋がっています。
鹿本中学校前の交差点で環状七号線の下を抜けます
基本的には5叉路の道ですが、環七下の道が上り下り離れていたり、Uターン用の道があったりするので、道路がいっぱいあるイメージです。信号の待ち時間が長い。
菅原橋交差点(多叉路で有名なところ)
細かい道まで数えると11叉路らしいが、カーナビ上は8叉路です。
ここの交差点名にも橋がついてますが、橋はありません。
江戸時代から昭和のころまで、ここには中井堀という農業用水路があり元佐倉道と交差していました。この堀沿いには、葛飾区の新宿(にいじゅく)にいく道がありました。この堀は、現在は道路の下を通る暗渠となり仲井堀通りと名前を変えました。
ここで寄り道、本一色北野神社へ
どうしても、見ておきたかったものがあるので、仲井堀通りを入ります。
地図の上では、この道は「仲井堀通り」なのですが、道路脇に「菅原橋天神通り」の真新しい道標がでています。
この看板の裏にある藤棚の下に、見たいものがあります。
本一色北野神社は、かつては、天満宮として菅原道真を祀った神社でした。菅原橋の由来は、ここからと言われています。
見たかったのは、この道標。
道標の4面に、どんな情報が書き込まれているのか調査していたので。
文政2年(1819)建立
月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山信仰の講中の碑
正面「月山・湯殿山・羽黒山 講中」
向かって右側「是より右 新宿道」
向かって左側「是より右 市川道」「文政2(以下読み取れず)」
背面「本一色村」
正面に「是より左上小松平井道」と書かれているそうですが、ほとんど判読できません。「講中」の文字の横に書いてあるような無いような感じです。
江戸川区文化センターの前に「元佐倉道」の看板
菅原橋交差点に戻り、元佐倉道を歩いていきます。
元佐倉道(旧千葉街道)の看板が、江戸川文化センターの前にあります。
これと同じものが八蔵橋のところにもあるので、見落としても大丈夫です。
八蔵橋の交差点を渡って旧道へ
現在の千葉街道は、この交差点を左に曲がっていきます。左に曲がり京葉道路とぶつかる交差点が、現在の千葉街道の起点。江戸川区の東小松川交差点から千葉県千葉市中央区の広小路交差点の区間の国道です。
八蔵橋
八蔵橋から土手にぶつかるまでが、旧道らしさを残す場所とのことですが、車がバンバン通ることもあって、あまり「らしさ」は感じません。
小松川境川親水公園のところにあるのが八蔵橋です。
境川という小川が流れていたようです。
緑道の植込みのところに昔の橋の跡も残されています。
五分一通りと五分一橋
八蔵橋交差点からの旧道は、五分一通りと呼ばれています。
ネットで調べたら、この場所(五分一)に関する書籍が売られていた。調べると面白そうな場所です。
古い地図で見てみると、このあたりに境川と繋がる農業用水または小川があったようです。
土手にぶつかるので小松川橋に迂回します
中川の土手に阻まれます。中川は昭和6年に完成した人口の河川です。
江戸時代は、歩いて通れた場所ですが、今は、小松川橋を渡ります。
橋を渡り終えた時のことを考えて、手前の陸橋ではなく信号を渡った陸橋から橋に上がります。
小松川橋からの風景(綾瀬川、中川)
綾瀬川の上から下流方向を見ます。首都高の向こう側に、江戸川競艇場が見えます。ちょうどレースをしているようで、モーターボートが走り回っているのが分かります。
中川の上から下流を眺めます。
川を渡り終わったところで、四股の道標を見ておけば良かったと気付きましたが、後の祭り。残念。
東大島の商店街を抜けて旧道を目ざします
旧道に向かうため、ここで京葉道路から離れ、首都高方面に行きます。
折角なのでと思い、東大島のマンションが立ち並ぶところを抜けていきます。
20数年前に、このあたりのマンションを見に来たことを思い出しました。購入には至りませんでしたが、ここを買っていたら、どんな人生になっていたんだろうと、しばし妄想...
首都高7号小松川線の下の道が旧道です
高速下の旧道ですが、綺麗に整備された道になっているので、街道歩き感はゼロ。
小松川神社に寄り道
道路沿いに神社がありました。折角なので立ち寄っていきます。
結構立派な神社です。村の鎮守様って感じじゃない(神主さんがいる神社でした。)
階段の手前にある逆井の渡し跡に関する説明文です。こちらの説明文は、江戸川区教育委員会が設置したもの。逆井橋を超えたところに、江東区教育委員会が設置したものがあります。読み比べてみましょう。
こちらは、小松川神社に関する説明の看板。
少し高台になったところに建っているので、気持ちいいくらい周りの景色が見えます。
比較的新しい時代に移転したのか境内の木がまだ小さいです。
左右の狛犬ともに子犬がいる子孫繁栄を願ったものです。
良くある「親犬が子犬を踏んでいるスタイル」ではなく、少しは離れたところで戯れる子犬になってました。
逆井橋を渡り旧中川を超えます
「逆井」とかいて「さかさい」と読みます。
流れがあるのかないのか分からないのが現在の旧中川。江戸時代はどんな流れだったのでしょうか。
江東区エリアに入ります
橋を渡ったところに「逆井の渡し跡」の石碑があります。
立派な石碑が建っていました。
後方の説明文も、江戸川区のものより詳細に書かれています。(勉強になりました)
元佐倉道の道跡を示す石柱(平成になって建てられたものです)
こういうのがあると街道歩きの気分を盛り上げてくれるので好きです。
それが平成に作られたものでも熱心に見てしまいました。
左右の側面が道標風に道案内板になっていますが、これだけを見て目的地に行くのは至難の業だなと感じました。
急に裏道っぽい未整備の道路に変わります
旧街道ぽい雰囲気はありませんが、目をつぶれば旧道らしさを感じるかもしれません。
江東区の区間は、旧千葉街道の表示になります。
江東区の区間は、あっちこっちに、この道路標示がでています。
江戸川区は「元佐倉道」が一押しだったけど、江東区は「旧千葉街道」が一押しか。
都電が走っていたところが緑道で残ってます
亀戸緑道公園と元佐倉道が交差したら左右をよく見てください。
ここを昔、都電が走っていました。
都電跡は、亀戸緑道公園、大島緑道公園、南砂緑道公園などに残されています。
五の橋交差点(亀戸駅前の通りとの交差)
旧千葉街道の石柱です。こちらは、現在の千葉街道を建設した経緯なども側面に書かれています。(昭和33年に建てられた石柱です)
元佐倉道の名称が千葉街道になったのが明治8年。(旧道)
現在の千葉街道(国道14号線)は、千葉方面を結ぶ重要な陸路として国鉄総武線沿いに千葉街道を建設したそうです。
亀戸駅前から続く亀戸駅前通り。角のラーメン屋さんは人気店で行列ができてます。
五の橋。いい感じの橋です。この橋を渡って南下すれば、西大島駅。
貨物専用線のガードをくぐります
JR東日本の貨物専用の支線です。本数が少ないため、貨物列車が走っている姿はほぼ見られません。
この交差点は横断できません。横十間川に出る裏道へ
横十間川があるので、横断できません。「馬車通り」に出て、道路の横断と川を超えるのが一般的ですが、ここは、知る人ぞ知る裏ルートへ(右の馬車道に向かわず、高速の下を目ざして左へ)
カヌー・カヤック場のところから堅川を超えてUターンします。
カヌー・カヤック場があるだけですごいですが、休日や平日の部活時間に横十間川でカヤックをやっている人を見ることができます。
道路の下にトンネルがあるので、そこを抜けると
道路を超えて、横十間川の畔に出ます。ここから、馬車通りに上がって川を越えます。少し遠回りの裏道ですが、歩きに飽きてきたので丁度良い気分転換です。
この写真では、画面上の方に流れる川が横十間川(よこじゅっけんかわ)、左方向に流れる川が堅川(たてかわ)
江戸から見て、縦方向か横方向かで川の名前が付けられています。
横十間川を越えたら墨田区エリアに突入
錦糸町駅前から来る四ツ目通りを渡ります
20数年間、この道(四ツ目通り)を通って通勤してました。サラリーマン時代が懐かしい。
並行して走る馬車通りがメインストリートなので、交差点の都度、横断歩道がある馬車通りと旧道を行ったり来たりすることになります。
ラブホテル街
四ツ目通りとぶつかる前後はラブホテル街。昼間から入るカップルや、一人で出てくるミニスカートの女性などを横目に見ながら、足早に抜けていきます。
大横川親水公園
以前は、その名の通り川が流れていたが、今は上流で堰止められてスカイツリーの方まで続く公園になっている。
墨田区のエリアでは、旧道を示す案内板はでなくなります
こんな感じの何の変哲もない道が続く。
歩き疲れてきたころに、こういう道が続くのはキツイ。
清澄通りとの交差(二の橋)
小林一茶が住んでた場所だそうです。俳句の一つでも捻り出せれば旧街道歩きも楽しいのかもしれませんが、その才能がないので、お茶を飲んで一服。
軍鶏鍋屋「五鉄」。
こんな調子で、この先も看板がいっぱいあるのですが、看板しかないので何の感動もありません。
堅川(たてかわ)に出て見ました。
予想以上に水を湛えていますが、流れがありません。
出羽海部屋
両国と言えば、相撲。「出羽海部屋」です。
部屋の前には大量の自転車。
一の橋
一の橋。堅川に架かる一番最後の橋、この先は隅田川との合流です。
ついに隅田川に流れ込むところの水門が見えてきました。
隅田川テラス
隅田川テラスから上流方向の両国橋を眺めます。
水上バスが通過していきました。
隅田川テラスから、再び元佐倉道に戻ります。
春日野部屋
春日野部屋。
春日野部屋と言えば、第44代横綱 栃錦関。
(相撲はあまり知らないですが、小岩駅の銅像で栃錦関だけは知っています)
雑な看板たち
工事中だからなのか、元々なのか、雑な感じで観光スポットの説明が続きます。
工事の看板がジャマ
工事用フェンスに括りつけられた看板
まとめてどうだって感じ
両国橋に到着
この地球儀のような球体は何って思ってネットを調べると、本当に地球儀らしい。
球体の載った台座部分は親柱というらしい。勉強になります。
隅田川を渡れば台東区
やげん堀を通過
やげん堀を横目に見ながら進む。
「やげん堀」を漢字で書くと、薬研堀。隅田川と繋がる荷揚げ用の堀があった。
浅草橋交差点でゴール(旧日光街道との接続ポイント)
途中機材トラブルでロスタイムがありましたが、食事もせず歩き続けて4時間半で到着。歩数は2万歩強。私の歩幅で計算するとおよそ15kmの歩きになりました。
おまけ
ビルの中にある神社
「初音森神社」というらしい。
鳥居をくぐってビルの階段を上がる。
(後日ネットで調べると、御朱印までもらえる神社だった)
2Fが拝殿。階段のところに呼び鈴(インターフォン)があるので、押してから上がるのか、押さなくていいのか悩む。結局、下から見上げただけで退散。
JR浅草橋駅構内にある自販機
個人的には「妄想チュー(300円)」が気になる。
誰が買っていくのだろうか。