JR小岩駅から徒歩で20分ほど、江戸川のすぐ横にある善養寺(別名 小岩不動尊)に参拝してきました。
意外と見どころ満載のお寺さんでした。有名なお寺さんと違って地元の参拝客が多いので、落ち着いた気分で参拝したり、境内を見て回れました。
善養寺(別名 小岩不動尊)
善養寺の南側にある参道から紹介していきます。
道標
参道の入り口に「小岩不動尊」の石柱があります。
寺の正式名は「善養寺(星住山地蔵院善養寺)」なのに、自ら「小岩不動尊」と言ってしまうところが面白い。
「小岩不動尊」の石柱の下の方は、道標になっています。
左の石柱には「是より南三丁 逆井道通りぬけ」
自分は、「南」の草書体が読めず「右」と勘違いし悩みました。「三」も「二」にも見えるしと悩みまくり。
逆井道は、千葉街道(元佐倉道)の両国方面のことだろうと推測。
それにしても、判り難い案内板だなと感じます。
明治の地図で確認すると、南に300mちょっといくと東西に走る道にぶつかり、そこを西に向かって歩けば、千葉街道(元佐倉道)には出られます。他にも案内板(道標)が出てないと絶対辿り着けない。
左の石柱には「是より右三丁入 市川通りぬけ」
明治の地図を確認すると、この位置から右に出ると現在の篠崎街道となる道が通っています。この道で一里塚交差点に出て千葉街道(元佐倉道)のルートを示していると思われます。但し、1里塚交差点まで、およそ600m。3丁(330m)では着きません。
そこで、推測しました。石柱は、ここにあったのではなく不動門を出たところ(入谷の集落がある道)で参拝を終えた人向けにあったのではないか。だとすると、どちらのルートもスッキリします。
善養寺 仁王門
朱塗りでシンプルな門です。
仁王門の横に、善養寺の案内の看板が出ています。
寺の創建は室町時代。寺の言い伝えでは「大永7年(1527年)創建」だが、それより前の「永正6年(1509年)」に当寺の記事があるので、言い伝えより前に創建されたらしいと書かれてます。
境内に不動堂があるため、小岩不動尊とも呼ばれている。
右側の仁王像。製作年代は不明だそうです。
仁王門をくぐって振り返るとそこには、左に「大横綱」
右に「横綱栃錦像」があります。
栃錦は、地元(下小岩)出身の名横綱。
小岩駅の改札を出たところにも銅像が建っています。駅の銅像はみんなが触るのでピカピカです。
こちらのは、像の前のガラスに周りの景色が映りこんで良く見えません。残念。
力石?
仁王門を入って直ぐの植え込みに丸い石が使われている。
一部の石には文字も彫られている。「大玉石」「力石」...
ここいら辺の神社では力石が普通にあったりするが、お寺さんでも力自慢の大会をしていたのだろうか。
横綱山
横綱山。
昭和55年に境内で子供相撲大会をしたそうだ。その時に栃錦関(春日野親方)が力士を連れてきてくれた。それ以降、平成2年まで毎年9月の大会に来てくれて、子供力士を励ましてくれたそうです。この山は、その時の土俵の上に作られた。
登って下って足腰を鍛えてね。という願いがこもった山でした。
小さな山なので、高さは2mくらいだろうか。
善養寺は何回か来たことがあるが、横綱山に登ったのは初めて。
意外と気持ちいいものである。
影向のマツを上から眺めたが新鮮な気分になる。
善養寺といえば「影向のマツ」
いつ来ても、その姿は変わらず安心する。
手を伸ばせば届くような高さに幹を四方八方に伸ばす姿は、流石「東の横綱」
昔、香川県にある松と日本一を競い合ったそうだ。
その争いで仲裁に入ったのが相撲の行司さん。どっちも日本一で、引き分けとしたそうです。
松の木の根元にあるのが、「影向の石」
昔、どろぼうが善養寺の不動明王を盗もうとして、この石に捕まったという言い伝えがある。「石」に捕まえられるとは、なんとも間抜けな泥棒だ。
春日野親方(栃錦)が送った東の横綱に推挙すると書かれたプレート。
西の横綱になった松には、送ったのだろうか。
不動堂 (小岩不動尊)
室町時代に開基とある。
「小岩不動尊」と道標に書くくらいなので、昔は、この不動堂への参拝が目的で人が遠方から来ていたのだろうか。
お寺には珍しく狛犬もいる。
元々、狛犬は仏教とともに中国やインドから伝わったと言われている。
なので、お寺にいても変ではないが、多くの寺では、寺を守るという意味で犬や獅子ではなく、人の形をした仁王像になっていったそうだ。
善養寺 本堂
本堂の左側に「なでぼとけ」がいる。
今日は、コロナの影響で撫でずに、手だけ合わせて参拝する。
影向殿と不動門
以前訪問した時は、この広場で、菊花展が開かれていた記憶がする。
新四国遍路道
釣鐘堂の裏には、細い小道の両側にこんな感じで石仏が並んでいる。
子供だましと馬鹿にしてはいけない。
訪問時は作業着を着た若い女性が熱心にひとつひとつに手を合わせながら巡っていた。
傘の碑
下小岩村入谷(現在の東小岩2・4丁目)付近で和傘作りが盛んに行われていた。
江戸時代から傘作りが広まり、明治末期から大正末期が最盛期だったとある。
横綱栃錦の実家も蛇の目傘を作っていたそうだ。
天明3年浅間山噴火横死者供養碑
長野県で起きた噴火の犠牲者の供養碑がなぜ江戸川区にと思ったが、説明書きを読んで納得。関東に降り注いだ火山灰で山津波が発生し多くの犠牲者が出たとあった。
現代は「富士山が噴火したら」と心配するが、浅間山でも大噴火なら利根川水域の上流では多くの犠牲者が出そうだ。怖い。
不動門から退出
不動門から出ると、こんな感じの風景が広がる。
入り口の両脇にある松も見事である。
不動門から入ると正面に不動堂がある位置関係です。昔は多くの参拝客が、ここから出入りしたのではないでしょうか。
「新編武蔵風土記稿(1804~1829年編纂)」でも「今世人小岩不動とて渇仰するもの多し」とある。
アクセスに最適な、おススメの散歩コース
おススメのコースは、京成本線 江戸川駅を出発点とする散歩コースです。
気分は、江戸時代の旅人。
江戸川駅周辺には、小岩市川の渡しがあった関係で、多数の史跡があります。
当時の道標などに江戸時代を感じて頂いたら出発です。駅の前の道を南に進みます。
いま、歩き始めた道が元佐倉道と呼ばれる旧道。両国までつながっています。
蔵前橋通り・千葉街道とぶつかったら、陸橋を渡り、道路の向かい側へ。
総武線のガード下をくぐると一里塚交差点。ここを斜め左に行けば、善養寺への最短ルートですが、今日はこちらではなく、まっすぐ進みます。
一里塚交番を過ぎ、小岩図書館のところで左折。
小岩図書館の前にある花火屋酒店は、明治の頃は酒屋ではなく、和傘屋さんだったそうです。
ここから先は、「今昔マップ on the web」の出番です。明治の地図を頼りに右に左に歩いてみてください。ゴールは、小岩不動尊(善養寺)の不動門です。
この散歩コースを面白くするのは、現在の地図を使わないところなので、頑張って歩いてきましょう。