今日は、南小岩(東京都江戸川区)から西小岩、東新小岩(東京都葛飾区)に掛けて天祖神社巡りをしてきました。
沖天祖神社 (江戸川区南小岩)
散歩の途中で地元の「天祖神社」の前を通りました。
この神社に、「小岩」の地名の由来が書かれた看板があった気がして、境内に入ってみることにしました。
記憶違いなのか地名の由来を書いた看板がありません。それだけでなく「天祖神社」と書かれた石柱もなくなったような気がします。あるのは、「南小岩六丁目児童遊園」の看板だけです。この雑な扱いは、いったい何があったのでしょうか?
そもそも、この神社は何神社なの? ということでgoogleマップで検索すると、ちゃんと「沖天祖神社(東京都江戸川区南小岩)」とでてきました。地元民は「下小岩沖天祖神社」とか単に「天祖神社」呼んでいます。「南小岩六丁目児童遊園」っていうのは、区の広報くらい...
江戸時代このあたりは下小岩村の沖耕地と呼ばれていました。
せっかくの機会なので、境内をくまなく見て回ります。
拝殿横の小さな鳥居、更にそこに祀られた小さな小さな拝殿のようなもの(厳島神社)の土台に「小岩町」の文字を発見。今は亡き地名が残っていました。しかも、文字が右から左に書かれています。
小岩町という地名があったのは1928年から1966年(昭和41年)まで。
右から左に横書き文字を書いていたのは、日露戦争頃から太平洋戦争直後くらいまでらしいです。
鳥居の横にあるのが、国威宣揚の石碑。昭和13年(1938年)は、そういう時代だったんですね。私が注目したのは、左下に書かれた「神明町会」の文字。謎です、神明町と呼ばれるエリアがあったのでしょうか。ネットで調べてみると、この辺りの自治会名は今も「南小岩神明町会」でした。
この神社のすぐ隣は、円蔵院というお寺。位置関係からは、まるでお寺が管理している神社のようです。
それもそのはず、ネットで調べると
明治維新の神仏分離令で円蔵院から分離、現在は「小岩神社」の摂社となったとあります。もともとは「神明社」ということも判りました。
江戸川区史 第三巻より
面白くなってきたので、西小岩の「天祖神社」にも足を伸ばします。
沖天祖神社から新中川にでて、川沿いを上流に向かうこと数分。
上一色天祖神社 (江戸川区西小岩)
西小岩にあるのに、「上一色天祖神社」といいます。
現在の上一色という地名は、新中川を挟んだ対岸のエリア。後からできた新中川によって地域が分断されたのでしょうか。
新中川が完成したのは1963年。
江戸川区で大規模な住居表示変更が行われたのが1966年。この時、この辺りは、上一色町から西小岩2丁目になりました。
ちゃんと看板も、天祖神社と書かれた石柱もあります。普段は無人なので、用があるときは「新小岩厄除香取神社」に連絡頂戴って感じでしょうか。看板にある「遙拝(ようはい)」の言葉の意味が分かりません。この神社でお参りすれば、新小岩厄除香取神社に行ったのと同じってことかな。
江戸川区の教育委員会も、ちゃんと看板をだしています。沖天祖神社とえらい違いです。旧上一色村の鎮守さまってことですね。この辺りを散歩していると、いろいろなところで天祖神社を見かけます。何か理由があるのでしょうか?
鳥居を抜けると急に空が広がります。
拝殿に何か物足りなさを感じるのは、さい銭箱がないからなのか、周りの風景のせいなのか。
拝殿の左には自治会の集会室らしき建物、右側はお祭りが出来そうな広場となっています。現在は、信仰の場というよりも地域のコミュニケーションの拠点となっているのかもしれません。
境内には日露戦争に関係した碑もありました。
そういえば、奥戸の自動車学校の横に天祖神社があったことを思い出し、更に足を伸ばしていきます。
西小岩から、西に向かって少し歩きます。「新」が付くとはいえ東小岩と似た「東新小岩」という地名の登場に毎回違和感を覚えます。
上小松天祖神社 (葛飾区東新小岩)
「上小松天祖神社」です。鳥居を2つ抜けた先に拝殿があります。いままでの2つの神社に比べると、何やら御利益がありそうな感じです。
ここは、東新小岩と奥戸の町境。境内の一部が奥戸で、東新小岩が正式な住所というややこしさ。なので、ネットの情報では両方の住所が存在しています。
ちゃんと看板も石柱もあります。
おやっ、ここにも「新小岩厄除香取神社」です。看板の形式も上一色天祖神社と同じ。「新小岩厄除香取神社」の文字が一番目立つように作られてます。
由緒が書かれた石碑があります。石碑を最初に読んだときは、お寺をやめて神社になったってことかと思いましたが、違うみたいです。日本語は難しい...
今日の小さな冒険は、ここで終了。
次は「新小岩厄除香取神社」や今日訪問しなかった小岩周辺の天祖神社を訪問してみようと思います。
帰宅後、天祖神社が多い理由を調べました。
江戸川区を含んだ隅田川以東の地は、早くから葛西氏の所領であった。葛西三郎清重は敬神の念が厚く、この地に伊勢神宮の神領とし天照大御神を祭神とする神社が多く作られた。また、香取神社の分霊も勧請された。
江戸川区史 第三巻
江戸川区は、海に面し河川も多いことから水神社も多く祭られている。