旧奥戸村の神社、旧跡を巡る旅をしてきました(葛飾区奥戸1~3丁目あたりを巡るコース)

きっかけは、昨日ふと立ち寄った「奥戸水神社」の由来が書かれた看板でした。

奥戸水神社 由緒
奥戸水神社 由緒

看板には、旧奥戸本町には、「鎮守天祖神社」、「奥戸水神社」、東南部に「天玉祠」、南西部には「大六天神社」の4つが鎮座しているとあります。

「これは、面白そうだ。次回は、この4つの神社を巡ろう」

場所を調べるためgoogleで検索してみました。
この中の「天玉祠」が、の結果にヒットしてきません。なぜ?

次に、googleマップで詳細に奥戸の町の東南部を見て回ります。
すると、似てるけど、ちょっと違う名前の神社が見つかりました。

「これは、直ぐに確認しに行こう。せっかくだから、奥戸の史跡も見てこよう」
ということで、旧奥戸村があったあたりをぐるっと一筆書きで巡ってきました。

奥戸天祖神社(葛飾区奥戸2丁目)

奥戸天祖神社の所在地:葛飾区奥戸2丁目35-16

環状七号線と奥戸街道の交差点を本奥戸橋方向に曲がります。マクドナルドの店舗を過ぎてすぐの場所に「奥戸天祖神社」はあります。

奥戸天祖神社 鳥居
奥戸天祖神社 鳥居

前回失敗して、東の参道から入ってしまったので、今回はちゃんと正面の鳥居から奥戸天祖神社の境内に入ります。

旧奥戸本町4社のうちの1社目です。

奥戸天祖神社 社殿と大しめ縄
奥戸天祖神社 社殿と大しめ縄

大しめ縄が、奥戸天祖神社の特徴です。

境内の様子は、前回訪問時の記事に詳細を記載しています。

奥戸水神社(葛飾区奥戸2丁目)

奥戸水神社の所在地:葛飾区奥戸2丁目33-4

奥戸天祖神社前の土手沿いの道を下流に数十メートル進みます。
中川の畔にあるのが「奥戸水神社」です。

奥戸のあたりは、中川が曲がりくねっていて、今スポーツセンターがあるあたり(野球場や陸上競技場)は昔は中川だったようです。
江戸時代に中川の工事が行われ、今のような場所に水が流れるようになりましたが、工事後も低湿地帯で大正時代まで「よし」が生えていた、と葛飾区の資料に書かれています。

こちらの水神社は、大正11年にこの場所に移設されました。それ以前は、ここから下流に200mほど行った「鼠山」といわれる場所にありました(かつしかの文化財79号より)

このあたりで、水の神様を祀るのも当たり前といえば当たり前。中川が急激に曲がっている外側に旧奥戸村がありました。田んぼが広がる場所で、灌漑用水も大切でした。

今日再び「奥戸水神社」来た目的はひとつです。
由緒書きの看板で「天玉祠」の「玉」が「王」じゃないことを確認するためです。

将棋の世界では、「王」と「玉」の違いは聞きますが、神社の世界では聞いたことがありません。将棋の世界で、「玉」から「王」と「玉」の2つの駒に分離したのは、豊臣秀吉だそうですが、ここで「玉」か「王」かとなるとは思いませんでした。

どアップの写真を見ても、「天玉祠」です。

中川にできた洲

中川の対岸に出来た洲
中川の対岸に出来た洲

奥戸水神社から下流に150ほどメートル進んだところから対岸を撮影しました。
堤防の手前のところに、砂や小石が堆積し、洲が出来始めています。
ちょうど、帝釈天道枝道に曲がる辺りです。
葛飾区の資料によれば、南蔵院(上の写真では左端の建物)あたりで、川砂の採取が行われていたとあります。採取された砂は、船で立石勘助児童公園あたりに運ばれたそうです。

明治時代の地図では、対岸もこちら側も、川(中川)に向かう道が確認できるので、このあたりに船着き場があった可能性が高いです。

「奥戸」の地名は、室町時代の文書に出てくるほど古くからあります。
「奥津」が転じて「奥戸」になりました。「津」は港とか船着き場の意味があります。

対岸の立石の様子は、少し前に歩いてきて記事にしてあります。

森市福地蔵尊、南葛大師12番、入定塚(葛飾区奥戸2丁目)

森市福地蔵尊、入定塚の所在地:葛飾区奥戸2丁目17−36

中川沿いの道(遊歩道)を下流に向かって歩いて行くと、森永乳業の東京工場の手前くらいで、地蔵尊に出会います。

森市地蔵
森市地蔵

由緒書きの看板があります。

「森市」という行者が祀られた地蔵尊です。単に「森市地蔵」といったり、赤いのぼりにあるように「森市福地蔵尊」といったりするようです。

この辺りを、「森市地蔵」や「圦の河岸」と呼んだと看板にあります。

2つ並ぶ祠のうち、
右側が南葛大師第12番の弘法大師像。(大正12年に作られました)
左側が森市地蔵尊と聖徳太子像です。(森市は、江戸時代の方です)

入定塚
入定塚

森市という行者は、即身仏になったということで「生きながら墓穴に入り(入定)、即身仏になった」という石碑「入定塚」も建っています。

訪問した時は、近所の方が、熱心にお世話をされていました。

奥戸馬頭地蔵尊(葛飾区奥戸1丁目)

奥戸馬頭地蔵尊の所在地:葛飾区奥戸1丁目16

森永乳業 東京工場が終わり、せんべい屋さんの「鍛冶屋」が見えたら、土手道を降ります。

奥戸馬頭地蔵尊
奥戸馬頭地蔵尊

由来など説明書きの看板はありません。昭和44年に作られたようです。
右横に「八十八」と書かれた石柱がありますが、何を指すものか不明です。

この地域(奥戸や立石)を歩いていると、「馬頭」と付く神社や観音を見かけます。
調べてみると、葛飾区では農耕馬が使われていたようですが、農家が飼っていた訳ではなく、必要な時期に借りてきたそうです。(葛飾区資料より)

大六天神社(葛飾区奥戸1丁目)

葛飾区奥戸1丁目17

おせんべい屋さん「鍛冶屋」の前の道を入って直ぐのところにあるのが大六天神社です。
この神社で、3つ目の神社を制覇です。

大六天神社
大六天神社

境内に由緒書きの看板はありません。神社には鳥居と小さな祠がありました。
1927年以降の地図に集落らしきマークが現れますが、その前の地図では、田んぼのマークのみです。1940年代から1970年頃のどこかで創建された神社(祠)なのでしょうか。

奥戸では、田んぼ(お米)の他に、明治初期にはレンコンを作る農家もあったようです。

大六天神社 祠
大六天神社 祠

ネットを探っても、何の情報も出てきません。
神社巡りで有名なサイトですら、スルーしているようです。
神社とは言っていますが、祠のようなものしかないので、しょうがない。

鬼塚(葛飾区奥戸1丁目)

鬼塚の所在地:葛飾区奥戸1丁目28−3

大六天神社の前の道を進むと、バス通りにぶつかります。そこを渡った先にあるのが「鬼塚」です。

鬼塚の看板
鬼塚の看板

もしかしたら、このあたりは、奥戸村ではなく上小松村だったかも。という微妙な場所にあります。明治時代の地図では、田んぼが広がっていて、集落はありません。
看板にあるように、何らかの儀式が行われてきた場所ということなので、特別神聖な場所なのかもしれません。

鬼塚
鬼塚

少し盛り上がった塚のあたりに木が生えている広場が「鬼塚」です。
何やら、工事をするようでテントを張ったところで作業員の方が休憩を取られています。工事の柵があるため「鬼塚」に近づくことができません。

奥戸の古代遺跡跡(葛飾区奥戸1丁目)

バス通りを少し北の方に行きます。
森永乳業の工場入り口を過ぎ、南奥戸小学校の横(ガソリンスタンド)のあたりに、遺跡跡の碑を見ることができます。

奥戸の古代遺跡跡
奥戸の古代遺跡跡

鬼塚遺跡(奥戸1丁目)、本郷遺跡(奥戸3丁目)のことなどが記載されています。
奥戸に官位を持つ役人がいたことを示す出土品があったそうです。

牛頭天王社(葛飾区奥戸3丁目)

牛頭天王社の所在地:葛飾区奥戸3丁目15−15

南奥戸小学校のところを右折してまっすぐ進みます。ライフ(スーパーマーケット)のある通りに出るひとつ手前を左折したところに、最後の目的地があります。

牛頭天王社
牛頭天王社

境内に由来書きがあります。
元文4年には、存在が記載された文書があるようです。
明治時代の地図では、ここは田んぼだらけ。現在のような道路が通るのも1965~1968年の地図からです。(今昔マップon the webで確認)

由来書きに昭和40年(1965年)までは、田島一郎氏が管理されてたので、その頃に、道路が出来て、田島家の敷地内にあった祠を移設。地域で管理するようになったと推測したが、真相は?

それにしても、田島一郎氏(餌蒔)の「餌蒔」とは何?

牛頭天王神社 祠
牛頭天王社 祠

鳥居の向こうには、小さな祠がありました。
祠の左横には石柱がありましたが、文字を読める状態ではありませんでした。

石碑にある妙厳寺は、この祠がある通りを北に行ったところにあります。

天王祠
天王祠

やっぱり「天王祠」です。本奥戸町(奥戸村)の4つめの神社を制覇しました。

それにしても奥戸水神社の看板は、何で「玉」にしたんだろう?

ところで、この場所も奥戸新田との境目あたりで微妙な場所です。
何だか、奥戸村の入り口4か所を、4つの神社で守っているかのようです。
なかなか面白い、歩き旅のコースでした。