市川市北部で庚申塔を見て回る【第二弾は堀之内と北国分】

庚申塔や路傍の神様を探して、市川市堀之内の駒形墓地を訪ねたり、市川市北国分3丁目、4丁目を歩き回ります。

庚申塔や十九夜塔、龍神などに出会うことができました。
さらに、「塞座三柱大神」という見慣れぬお札に出会って、新たな知識が得られる旅になりました。

私は自宅から歩いて行ったので、3万歩超えの歩き旅でしたが、北総線の北国分駅を利用すれば、散歩程度の歩数でも巡ることができるコースです。

駒形墓地で庚申塔、十九夜塔など石造物を見る

駒形墓地の所在地:千葉県市川市堀之内2丁目20

駒形墓地のあるある場所を明治時代の地図でみると、堀之内という集落の端っこでした。
古くからある地域の共同墓地という雰囲気です。
そんな墓地の奥に、庚申塔や十九夜塔などの歴史的石造物があると聞き、やってきました。

駒形墓地の庚申塔、十九夜塔
駒形墓地の庚申塔、十九夜塔

ところで、この場所は駒形という小字だったのでしょうか。
近隣の堀之内貝塚公園の中にも、駒形様と呼ばれる祠があります。

駒形墓地の念仏塔(延命地蔵)

正面中央の石造物から見ていきます。
お地蔵さんが描かれていますが、手元の資料では延命地蔵とあります。墓場に延命地蔵という組み合わせに思わずイスから転げ落ちそうになります。
延命地蔵の姿が彫られた石造物には、次のような文字が刻まれています。

駒形墓地の念仏塔(延命地蔵)
駒形墓地の念仏塔(延命地蔵)

「奉奇進念佛講中間國分村内堀之内四十八人」「寛文六年丙午二月廿四日」、願主も書かれていますが目視では判読できません。

文面から、念仏講の関係の石造物で寛文6年(1666年)の奉納と分かりました。
古い石造物でかつ屋根のない屋外での保管ですが、欠損などの劣化が殆どありません。コンディションの良さにビックリです。

駒形墓地の念仏塔(如意輪観音)

次に延命地蔵の左側にある如意輪観音の文字を確認していきます。
石造物全体に粉を噴いたようになっていますが、文字はハッキリ読み取れます。

駒形墓地の念仏塔(如意輪観音)
駒形墓地の念仏塔(如意輪観音)

「奉造立念佛同行二十四人」「宝永元甲申十月十五日」「國分村」。(の字は独特の書体)

文字から、こちらの石造物は、念仏塔で宝永元年(1704年)と判明。

駒形墓地の庚申塔

延命地蔵の右側には、庚申塔があります。墓地に、庚申塔という珍しいパターンです。
青面金剛像と三猿という分かり易い像容なので、文字を読まなくても判別できます。

駒形墓地の庚申塔
駒形墓地の庚申塔

庚申塔に刻まれた文字は、
「奉造立庚申供養二世安樂折所」「宝永二乙酉歳九月吉日」「國分村●内同行」

一部判読できない文字はありますが、状態の良い石造物です。
宝永2年(1705年)の庚申塔でした。

駒形墓地の馬頭観音と十九夜塔

右サイドの石造物に目を向けます。
左側に「馬頭観音」と刻まれた石造物、右側に如意輪観音像があります。

如意輪観音の方に注目して、文字の確認をしていきます。

駒形墓地の馬頭観音(左)と十九夜塔(右)
駒形墓地の馬頭観音(左)と十九夜塔(右)

如意輪観音に刻まれた文字は
「奉造立十九夜念佛二世安樂攸」「亨保二丁酉年十月吉祥日」

亨保2年(1717年)の十九夜塔でした。

ところで、十九夜塔は真言宗のお寺さん境内に見られることが多いのですが、この集落(堀之内)は真言宗の檀家だったお宅が多いのでしょうか。実は、堀之内は現在、お寺さんが一軒もありません。なぜ、ここに十九夜塔があるのか不思議です。

駒形墓地の馬頭観音

馬頭観音が多数あります。この地区には、農耕馬が多数いたのでしょうか。
手元の資料では、嘉永6年(1853年)のものもありますが、大多数が明治時代の奉納です。

駒形墓地の馬頭観音
駒形墓地の馬頭観音

北国分3丁目の庚申塔

北国分3丁目の庚申塔の所在地:千葉県市川市北国分3丁目21−11あたりの路傍

庚申塔は、北国分3丁目と4丁目の境あたりの住宅街にあります。
庚申塔のある小屋の前には、大きな木があり、この場所だけは周辺の分譲地と異なる様相です。

北国分3丁目の庚申塔と龍神
北国分3丁目の庚申塔と龍神

コンクリート造りの立派な建物の中には、庚申塔と石祠が、合計4つ鎮座しています。
左端から順に見ていきます。

庚申塔(青面金剛像)

左端の石造物は、青面金剛像が描かれた庚申塔です。三猿の像も描かれていますが、青面金剛像に比べると、かなり手抜き。
屋根があるとはいえ、劣化が全くなく、妙に石造物の文字がくっきり読み取れます。

北国分3丁目の庚申塔(青面金剛像)
北国分3丁目の庚申塔(青面金剛像)

庚申塔の右側面に、奉納年が刻まれています。
「安永五丙申年十月吉日」
左側面は、「當村講中」の文字が刻まれています。
安永5年(1776年)の庚申塔です。

庚申塔(青面金剛 文字タイプ)

左から2番目の石造物は、「青面金剛」と文字が刻まれた庚申塔です。
こちらの庚申塔も、作り立ての石造物のように文字がくっきり。何でこんなに状態が良いのでしょうか

北国分3丁目の庚申塔(青面金剛 文字)
北国分3丁目の庚申塔(青面金剛 文字)

右側面に奉納年があります。「文化四丁卯年霜月吉日」
左側面は道標になっています。「是より」「西 戸」「東 大はし」「道」(
なぜか、左側面だけ、くずし字! 道標なのに、くずし字かよと毒付いてみるが、私にはこれ以上の判読能力はありません、残念。

文化4年(1807年)の庚申塔兼道標でした。

御祭神が不明な祠

側面に書かれた奉納年は、明治時代ですが、正面の部分がボロボロになっていて御祭神が確認できません。昭和62年の市川歴史博物館による石造物調査の時点で、同様のコンディションだったようで、手元の資料でも御祭神不明とされています。

御祭神が不明な祠
御祭神が不明な祠

右側面に刻まれた奉納年は、「明治廿八年四月吉日」
左側面には、奉納者が3名刻まれています。

側面の文字は読めるのに、正面の文字が読めない石祠が多いですが、何故なんですかね。
意図的に破損させているようにしか見えないのですが...

高橋妙龍神

高橋妙龍神と刻まれた石祠が右端にありました。
高橋は、奉納者の姓と一致するので、高橋一族の龍神という感じでしょうか。
がついているところから、日蓮宗のお寺さんで良く見るタイプの龍神のようです。

高橋妙龍神
高橋妙龍神

奉納年は、「大正十五年三月廿六日」

北国分4丁目の庚申塔

北国分4丁目の庚申塔の所在地:千葉県市川市北国分4丁目22−9あたりの路傍

北国分4丁目の庚申塔は、T字路の角のところにありました。道路の反対側は松戸市。
現在でも北国分4丁目の端に置かれた庚申塔です。江戸時代からこの場所にあったのでしょう。

青面金剛の文字の書体が独特で面白い庚申塔です。

北国分4丁目の庚申塔
北国分4丁目の庚申塔

右側面には奉納年があります。
「天保十二辛丑十一月吉日」

左側面は道標になっています。石の表面が赤茶色に変色しているため、やや読みにくいですが、
「南 いち川」「西 まつど」「北 金●さく」「道」と判読できます。(手元の資料では金ヶさく)

天保12年(1841年)の庚申塔兼道標でした。

塞座三柱大神のお札

庚申塔のところに、「塞座 三柱大神」と書かれたお札がぶる下がっていました。
普段なら、そのまま見過ごすようなものなのですが、気になることがあります。

塞座三柱大神のお札
塞座三柱大神のお札

これと同じお札が、北国分3丁目の庚申塔にも、お供えされていました。
他にも、このT字路を左に行った先の国府台6丁目の庚申塔にも、「塞座 三柱大神」のお札がぶる下がっています。
これらの庚申塔に共通するのは、何なのでしょうか。そして、このお札の意味は何なのでしょうか。

市川歴史博物館のツイートで、「塞座 三柱大神のお札」の記述を見つけました。
そこには「堀之内地区の辻切り(オビシャ)が行われました」「大蛇作りを行わず、路傍に立てる辻切りのみ行われたようです」「塞座三柱大神の札が揺れています」

尚、堀之内地区の辻切りは、
博物館入口近く三叉路、弁財天、堀之内バス停近く、伊弉諾神社
の4か所で行われたそうです。

駒形墓地の庚申塔も、昔は「博物館入口近く三叉路」あたりにあったのでしょうか。