江戸川区北篠崎1丁目に名もなき稲荷神社があります。
神社巡りで有名なサイトですら相手にしない稲荷神社ですが、私には気になってしょうがない存在でした。どこまで、その謎に迫れるのでしょうか。
今回も、観察力と妄想力が試される謎解きになりそうです。
北篠崎1丁目の稲荷神社
稲荷神社の所在地:江戸川区北篠崎1丁目7あたりの民家と土手の間
江戸川の河川敷(土手)を歩いていると、眼下にその稲荷神社が見えます。いや、赤い鳥居の稲荷神社と大きな石碑が見えるので、ある意味、目立つ存在だと思います。
場所でいえば、興農親水緑道のひとつ下流側の道。
京成バスの北篠崎バス停の直ぐ近くです。
稲荷神社の境内を観察して、ヒントを探します。
力石に注目
境内や石碑のところに複数の力石(ちからいし)があります。
江戸時代から明治時代にかけて流行った、力試しに使う石です。
境内にある石には重さのみ彫られています。
良く神社などでイベントとして力自慢大会が行われることがありましたが、その際に使われたのでしょうか。それとも訓練用の石だったのでしょうか。
イベントで使われた場合だと、優勝者の名前が刻まれているパターンもあるのですが、名前は書かれて無さそうです。
稲荷神社の社殿を観察してみる
年代物ですが、傷んでいる箇所は無さそうです。
立ち入りが制限されているため、社殿の中を覗き見ることは叶いませんが、現在でも人の手が入って管理されていることだけは確認できました。
社殿の前にはゲージに入った狛狐がいます。
狛狐は、屋根のある金属製の囲いの中にあって良く見えません。
金網に囲われている理由は、何なのでしょうか。
考えられるパターンは、いたずら防止、貴重なもの(文化財とか)で人に触れられたくない、壊れやすい材質で出来ている、ですが、真相は?
ちなみに、赤い鳥居がありますが、木製のため、かなり傷みがでています。
灯篭に注目
境内には、ひとつだけ灯篭があります。
灯篭に何か書いてあるようです。現地では、文字がはっきり見えないので、分析用に写真に撮っておきます。その場では、年号らしきものと神社の名前のようなものの2点。
肝心の年号の部分が読み取れません。十二月は分かったのですが、その上で読めるのは「三」と「年」。「三」の上の年号らしきものは「●久」のように読めます。「三」と「年」の間にも文字がありますが読めません。
江戸時代の年号で「久」が付くのは「文久(1861~1864年)」。
新編武蔵風土記稿が発行されたあとの創建かもしれません。
こちらは、「稲神」または「稲社」の二文字が書かれているようです。新しい発見はありませんでした。
稲荷神社の境外を調べて回ります。
境外ですが、同じブロックに石碑が建っています。
いかにも同じタイミングで、この場所に作りましたって感じです。
「第12区記念碑」の文字が目立ちますが、篠崎連合土地改良工事の記念碑です。
昭和42年に建てられました。
この記念碑のところに、灯篭があります。
こっちだったら文字が読めたかも...と思い後日再訪問しましたが、稲荷社の方とは形が異なる上、年号もありませんでした。
この土地改良工事の記念碑とペアで稲荷神社が遷座しているのが大ヒントと思われます。
稲荷神社から15mほど離れた場所に、お地蔵さんが2体
小さい方のお地蔵さんは、年号が読み取れる状態でした。
そこには「寛保元年八月」(1741年)とあります。
このお地蔵さんに関するヒントは、塔婆にありました。
江戸川の水害で亡くなった方の供養をしていました。このあたりの土手が決壊したようです。
上流に150mほど行くと笹ヶ崎の庚申塔河原道石造道標があります
集合住宅のところにあります。1982年の写真を見るともう少し上流側の民家の角にありました。
江戸川区登録有形文化財に指定されている貴重なものです。
正徳5年(1715年)建立の青面金剛刻像庚申供養塔になります。
側面が道標になっており、左側面には
「これよりかわらへのみち」という文字が当て字で書かれています。
何で「当て字」というか「変体かな」にしたのか知らないけれど、「加●ら」って100%読めません。
右側面は「これより左いち川へのみち」
なぜか「左」の文字に赤い色が入ってなくて、読み難くしているのか?
両面ともに「へ」が「一」になっているし、どうしてこんな風に彫るかなぁ。
謎解き開始。果たして稲荷神社の謎は解明できるのか
まず最初に明治時代の地図を見てみます。
江戸川区立図書館のデジタルアーカイブスにある明治13年の地図には、この稲荷神社がある現在の場所の近隣に2つの神社があることが記載されています。
1つ目は、上篠崎村の白髭祠、2つ目が笹が崎村の稲荷祠。
この内、最も近いのは笹が崎村の稲荷社。現在地から江戸川の河川敷方向に数十メートル移動した場所に神社マークが付いています。
ほぼ決定で良さそうです。
明治の地図をよく見ると土手の内側(江戸川側)に田畑が広がり神社があります。どの時期かは不明ですが、土手の外側に遷座したのは間違いなさそう。
江戸川の河原にあった田畑が地図から消えたのは、昭和20年代。昭和22年にはカスリーン台風により利根川や荒川が決壊し大きな被害が出た年がありました。
土地改良工事で用水路が出来たりしたのは昭和40年代前半。
戦後になり急激に宅地化が進んでいったそうですが、篠崎駅ができたのは昭和61年。それまでは、通勤には不便な場所だったのではないでしょうか。
新編武蔵風土記稿の笹が崎村の項に稲荷神社が記載されていますが、灯篭の年号から見て別物かもしれません。