「伊予田の観世音道石造道標」の謎(ただ今、調査継続中)

先日、江戸川区北小岩を散策中に見つけた道標「伊予田の観世音道」が謎だらけなので調べてみました。

「伊予田の観世音道石造道標」

喫茶店の店先にある道標
喫茶店の店先にある道標

京成本線江戸川駅から北に20mほど歩くと、喫茶店の前にその道標はあります。
喫茶店の入り口のすぐ脇の上、看板があって見辛い。本当は嘗め回すように見たいのに何か遠慮がちになってしまいます。

伊予田の観世音道石造道標
伊予田の観世音道石造道標

石柱は全部で3本ありますが、今回取り上げるのは一番左側にあるやつ

道標の正面には、「安永四未ノ年 二り六丁  是よりあさくさくわん世おん道  伊与田村中」と書かれているようです。
現代風に書けば「安政4年建立。2里6丁。これより浅草観世音道。伊予田村中」

道標の左は、「左にいしゅく道 いわつきぢおんじ迄七り」
現代風なら「左は新宿(にいしゅく)道、岩槻慈恩寺まで7里」

道標の右は、「右舟ばし迄三り いちかわ道」
現代風なら、「右は船橋まで3里。市川道」

江戸川区のホームページによる解説では

原位置はやや北によった旧観世音道の入口にあり、その後糀屋商店前に移設されて保存されていましたが、平成17年(2005)に現在地へ移設されました。

江戸川区

謎(その1)どっち向いてるんだ?

この石碑は、もう少し北側にあったものが移設されたそうですが、それにしても

佐倉道の途中にあったとして、左が葛飾区の新宿、右が小岩市川の渡しの方向なるように立ってみてください。体は、江戸川の方(東向き)を向いています。
浅草に行くなら、反対側(西向き)を向かなきゃダメでしょう。

謎(その2)2里6丁ってどこまでなんだ?

2里6丁は現在の距離に直せば8km強。(8.5km)

仮に浅草の浅草寺までだとすると、道路網の発達した現在でも、距離は12km弱。
何とも不親切な道路標識です。

謎(その3)浅草観世音道はどこを通っていたんだ?

「浅草観世音道」って聞いたことあります?

ネットで検索しても出てきません。
元佐倉道や佐倉道(成田道)は、街道歩き好きな方が時々歩かれているので、現在のどの道か直ぐに判ります。

北小岩から浅草に行くのであれば、川を2つ渡らなけければ行けません。
当時、川を渡れる場所はかなりの制限があったはずなので、元佐倉道で両国橋を超えるルート、佐倉道から水戸街道経由で日光街道に出て千住の橋から行くルート、元佐倉道から行徳道・平井の渡しのルートは確定。

江戸川区の解説通りなら、第4のルートはどこを通っていたのでしょうか。

浅草観世音道に関する情報収集

ネットで調べていきました。

伊予田の観世音道石造道標

この道標は、
「原位置はやや北によった旧観世音道の入口にあり、その後糀屋商店前に移設されて保存されていましたが、平成17年(2005)に現在地へ移設されました。」
とあります。

この道標を1981年5月に撮影された写真をネットで見つけました。
その当時は、この喫茶店は寿司屋。そして、この道標は右隣の酒屋側にありました。写真は不鮮明でしたが、糀屋商店のようです。

明治8年の地図によれば、伊与田村で現在地よりやや北にある交差点は、斜め前の中小岩村にに抜ける路地くらいです。

小岩田のばんどう道庚申塔石造道標

伊予田の道標がある場所から佐倉道を7~800m北に行ったところの正真寺にある道標です。そこには、
「享保8年(1723)に建立された青面金剛の刻像庚申供養塔で、像の脇に「これより左はんどうみち」と刻まれています。坂東道ならば、坂東33カ所観音霊場の道、つまり慈恩寺(12番札所)をめざす岩槻道か、浅草寺(13番札所)をめざす浅草道をさしていると考えられます。」

下平井の観世音菩薩浅草道石造道標

江戸川区平井6丁目の諏訪神社境内横にある道標です。

下平井の観世音菩薩浅草道石造道標
下平井の観世音菩薩浅草道石造道標

「享保19年(1734)の建立。平成18年(2006)3月、西側道路の社務所脇の植え込みに移設され、保存されています。道標のある細い路地が渡しへ向かう旧道です。正面に観音菩薩立像が刻まれています。銘文は「秩父□□□あさくさ道」「享保十九甲寅」「是より佐(ひだり)ぎやうとく道(行徳道)」とあります。旧浅草道は浅草と行徳を結ぶ道筋で、江戸川区を直線で横切るものですが、平井の渡しに近いこのあたりの道は曲がりくねっていました。道標の原位置は現在地前の路地の南のつきあたり諏訪神社の南(保育園入り口付近)でした。」

現在の浅草通りは?、現在なら浅草までどのルート?

現在の浅草通りは
上野駅交差点(台東区東上野)から福神橋交差点(江東区亀戸)を結ぶ都道です。

では、江戸川区北小岩の市川橋から浅草寺までのルートをgoogleで検索してみます。
検索の条件は、徒歩!

検討出来そうな候補は2つ

  • 蔵前橋通りから奥戸街道に入り立石で旧中川を超える、四つ木で水戸街道に入り、言問橋を渡って浅草寺のルート
  • 蔵前橋通りを通り平井(江東新橋)で旧中川を渡る、北十間川沿いの浅草通りを進み吾妻橋を渡って浅草寺のルート

大胆な仮説を立ててみました

「伊予田の観世音道石造道標」は、旧観世音道の入り口に建っていたのではなく
「観世音道」までの距離を示していただけじゃないか。
つまり、「この先、観世音道まで2里6丁の近道」。

そして、その近道ルートは平井の渡しに繋がる道だったのではないか

観世音道の始まりを、平井の渡しを渡ったところとすると、理論的には2里6丁(8km強)で辿り着けたはず。

未だ、道標の向きの謎は解決できませんが、この仮説を検証していきます。

古い地図から調べる

まずは、江戸時代の地図から見ていきます。

御鷹場関係地図(宝暦5年)

江戸川図書館/デジタルアーカイブとして、宝暦5年の「御鷹場関係地図」をネットで見ることができます。

地図からは、伊予田村から中小岩村や奥戸村を通って、用水路(西井堀)沿いを下ってくれば平井の渡し(下平井村)に着けそうです。
距離感がめちゃくちゃな地図なので、近道なのか判りませんが...

東京府南葛飾郡全図(明治38年)

江戸川図書館/デジタルアーカイブとして、明治38年の「東京府南葛飾郡全図」をネットで見ることができます。

この時点でも、蔵前橋通りはありません。
御鷹場関係地図で目星をつけていた奥戸村までの道は、立石道という幹線道路っぽい名前になっています。
ただ、用水路(西井堀)沿いを下る道はあるような、ないようなという曖昧な状態
立石道に出るための道は、現在の道標がある場所の斜め向かいの路地になります。
ただ、この路地を入った後も、中小岩村の中を右に左に曲がりながら歩くので道としては複雑。

今昔マップ on the web (明治時代)

今昔マップ on the webで現在の地図と明治の地図を重ね合わせながら調べます。

千葉街道を使って行くルート、佐倉街道で千住を経由するルート、立石道を行くルート。
それぞれ何度も机上でトレースしてみました。

このルートは悪くないけど、途中で道案内の看板が無ければ辿り着けなさそう。

古代東海道

東京下町を通っていた古代東海道
東京下町を通っていた古代東海道の案内板

自分が想定したルートを検証のために歩いている時、見つけたのが、この看板。新中川を三和橋から渡った先の奥戸小学校のところにありました。
なんと仮説を立てた道(立石道)が古代東海道らしいとあります。

古代東海道は、中川を奥戸橋あたりで渡り立石を経由し、鐘ヶ淵あたりの「すみだの渡し」で隅田川超え。

古代東海道のことを浅草観世音道といっていたとしても、2里6丁では浅草寺に着かないので、何か違う。
仮に奥戸から立石へ中川を超えたとすると江戸時代の最短ルートとはなります。それでも浅草寺の手前2kmほどで2里6丁に達してしまう。その地点に何かあれば話は別なんですが...

中川はどこで渡ったか

宝暦5年の「御鷹場関係地図」には、船着き場らしいものが2か所に描かれています。
それは「平井の渡し」「逆井の渡し」
この地図には、なぜか現在の葛飾区側の渡しが書かれてない。徳川の将軍は平井と逆井しか使わなかったのでしょうか。

「今昔マップ on the web」の1896-1909年(明治時代)の地図では、「曲金渡し」「諏訪野渡し」「新渡し」「上平井渡し」などの記述があります。(江戸時代、これらの渡し全てがあったかは定かでない)
この内、周囲の道路の状況から往来の多かったと予測するのは、奥戸と立石を繋ぐ「新渡し」。柴又の帝釈天に行く参拝客も多く通ったと思われる。
「奥戸」の地名は、河川を使った水上輸送の拠点に由来すると言われている。「戸」は「津」と同義語として使われ、「津」には渡し場や港の意味がある。

また、この時点で「平井の渡し」は「平井橋」、「逆井の渡し」は「逆井橋」、新宿(にいしゅく)は「中川橋」となっています。人やモノの運搬ルートとして重要性がうかがえます。

道標の向きの謎から暫定の答えを出す

この道標を必要としている人のことを考えます。

浅草浅草寺に行きたい方は、市川から渡しを渡ってきた人。
市川方面や新宿方面かを知りたいのは、浅草浅草寺方面からの帰り。

だとすると向きが矛盾しない場所はどこでしょう。伊予田村に昔あった2つの交差点で確認していきます。

まず、現在地の斜め前の路地を想定してみます。(T字路)
路地の入り口側に「是よりあさくさくわん世おん道」。では、路地の反対側から見てみます。左の側面には「右舟ばし迄三り いちかわ道」。違和感がありますが、間違っていません。

次に、元佐倉道の入り口に、この道標があった場合はどうでしょう。(Y字路)
元佐倉道の入り口側に「是よりあさくさくわん世おん道」。では、反対側から見てみます。左の側面には「右舟ばし迄三り いちかわ道」。先ほど同様に違和感がありますが、間違っていません。しかも、既知のルートで2里6丁で行徳道と四股で交差します。

江戸川区の説明である「現在地より北側の浅草観音道入り口にあった」を完全に無視すれば、元佐倉道の入り口にこの道標があったが、最も矛盾がありません。